【食育クイズ:Vol.1938】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都、島原」の「重要文化
財」の「遺構建築物」について、おさらいク
イズ(Vol.1938)にチャレンジ致しましょ
う。

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「江戸時代前期」の「1641年」に、「日本
最古」の「公許花街」として開かれた「京
都、島原」は、「江戸の吉原」、「大坂の新
町」と並び、「幕府公許の日本三大遊郭」に
数えられていた事で知られています。
「島原」の周囲は「塀」で囲まれ、「島原大
門」を出入口とした、いわゆる「郭(くる
わ)」特有の「ランドスケープ(景観)」を醸
し出していた訳なのだそうです。
現在「島原」は、「昭和51年」から「花
街」では無くなってしまっていますが、「島
原大門」の「門前」にある「見返り柳」の木
が、今の昔も変わらぬ姿で風に揺られてい
る姿を見て、訪れる人々に悠久の歴史の情緒
を感じさせると言われている訳なのだそうで
す。

「島原」が「花街」では無くなったきっかけ
とは、「1958年(昭和31年)」に、「売春
防止法」が制定され、それまでの「遊郭」と
しての機能の規模が縮小された事からなのだ
そうです。
以降「島原」独特の「太夫文化(吉原は花
魁)」を維持継続するのに、それまでのよう
に「京都花街組合連合会」の一員として、
「花街のしきたり」に従う事から離れ、自由
に活動していったほうが、歴史的な「太夫文
化の伝承」に専念出来るものとして、「昭和
51年(1976年)」に、「花街組合」を脱会
するに至ったのだそうで、その時から、「京
都五花街」とは分け隔てられた存在となった
訳なのだそうです。
ちなみに現在でも、1軒のみですが、「島原
太夫文化(最高位の芸姑文化)」の「維持・
継承と発信」の為、正式な「置屋兼お茶屋」
として営業を継続しているそうで、概ね5
名程度の「島原太夫」を抱えている訳なの
だそうです。
さて、本日は、「島原」の歴史的価値を広報
する為に、「国の重要文化財」に認定されて
いる「遺構建築物」について、おさらいクイ
ズにチャレンジ致しましょう。
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問題:古くから「京都の花街」の一つであっ
た「島原」は、「昭和51年」に「花街」か
ら脱退した後でも、「島原太夫文化」だけは
「維持・継承」され、その他にも「国の重要
文化財」に指定されている「遺構建築物」が
残されている事で知られています。
さて、それでは、「島原」独特の「揚屋建
築」の「遺構」で、現在は「もてなしの文化
美術館」となっている「建築物」とは、何で
しょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.一文字家和輔(いちもんじやわすけ)
2.輪違屋(わちがいや)
3.柊家(ひいらぎや)
4.角屋(すみや)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「京都、島原」の「角屋(すみや)」は、か
つて「花街」の「揚屋(あげや:料亭・饗宴
施設の事)」として営業していましたが、現
在は営業しておらず、その「建物」は「国の
重要文化財」に指定され、「1998年」から
は「角屋もてなしの文化美術館」として一般
公開されているのだそうです。
「角屋」の始まりは、「天正17年(1589
年)」に、「戦国時代」に荒廃した「京都」の
「復興事業の一貫」として、「天下人、豊臣
秀吉」が、「柳馬場二条(二条柳町)」の地
に、「傾城町(けいせいまち:公許の遊郭の
事)」として、「柳町」を開いた事がきっかけ
となり、「初代、徳右衛門」と言う人物が、
「角屋」の営業を始めたのが、その始まりな
のだそうです。
その後「江戸時代」になると、「関ヶ原の戦
い」に勝利した「徳川家康」の命によって、
「慶長7年(1602年)」に、「柳町」から
「六条三筋町」に強制移転されたそうです。
更にその後「寛永18年(1641年)」に
は、再度「江戸幕府」から強制移転が命ぜら
れ、それに伴い「角屋」も、「二代目」とな
った「徳右衛門」の手により、現在の「島原
の地」へと移るに至ったと言う経緯となった
訳なのだそうで、同じ時期に「九州」で勃発
した「島原の乱」のカオスな混乱を彷彿とさ
せた事もあって、「島原」と言う地名が付け
られたと言う「逸話」もある訳なのだそうで
す。
その後悠久の時が流れ「幕末期」になると、
「花街、島原」は、「西郷隆盛・桂小五郎・
坂本龍馬」等と言った「薩長土肥」等の「倒
幕派」の「志士」達を始め、逆にそれらの勢
力を取り締まる「近藤勇・土方歳三・芹沢
鴨」等と言った「新選組」が程よい距離のと
ころに「屯所」があった事もあって、その
「隊士」達も足しげく通っていたそうで、そ
の当時の「島原」は、「50軒」ほどの「置
屋」と、「角屋」等始めとする「揚屋」も
「20軒」ほどあり、非常に隆盛を極めてい
た訳なのだそうです。
ちなみに「花街」の「置屋」とは、「太夫や
芸舞妓」を育てて住まわせている家の事を言
い、その一方で「揚屋」とは、「置屋」から
「太夫や芸舞妓」を呼んで「宴席」を催す場
所の事を言い、「揚屋」と言う名称は、「饗宴
の場所」が「二階」に設けられていて、
「客」を「二階の座敷」へ「揚げる」事か
ら、名付けられた名称だった訳なのだそうで
す。
現在「島原」は、「花街」では無くなった訳
なのですが、それでも唯一現存する「置屋」
が残っており、現在でも「置屋」兼「揚屋」
と言う営業スタイルの「輪違屋(わちがい
や)」は、「島原太夫」が数名在籍している事
で知られているのだそうです。
ちなみに「輪違屋」は、「江戸、元禄期」
に、「置屋」として創業したそうで、「明治時
代」以降からは「揚屋」も兼業するスタイル
になったのだそうで、現役の「島原のお茶
屋」として営業し続けている唯一の存在と言
う事で知られている訳なのだそうです。
その一方、「昭和60年」に「廃業」した、
「揚屋」の「角屋(すみや)」は、その「間
口」が「31.5m」もある、壮大なスケール
の「揚屋建築物」であった事もあり、「揚
屋」を「廃業」した後には、日本で唯一現存
する「揚屋建築の遺構」として、「国の重要
文化財」に指定され、現在では、「島原」の
「歴史や文化」を広報する為の「角屋もてな
しの文化美術館」として、「一般公開」され
ている訳なのだそうです。
こうして「角屋」を訪れた人は、「置屋」と
異なり、「二階」に上がると、「揚屋」独特の
「大きな規模の宴席」に対応出来る「大座
敷」がある事に驚き、更に「一階部分」には
「50畳レベル」の大規模な「配膳所(台
所)」が設けられている事に驚くのだそうで
す。
また、「大座敷」に面する「広庭」や、3つ
もある「茶室」等と言った壮大なスケールに
驚くのだそうです。
ちなみに「角屋、二階」の「大座敷」である
「松の間」は、「43畳」もあり、面する広
大な「庭」には、名物の「臥龍松」が見事な
枝ぶりを示し、更にその奥には3つの「茶
室」があると言う「間取り」になっている訳
なのだそうです。
また「角屋」の長い歴史を刻む、主な「有名
人」や「逸話」としては、「江戸時代中期」
の「俳人・文人画家、与謝野蕪村(屏風絵が
所蔵されています)」を始め、「幕末期」の
「尊王攘夷派の志士、久坂玄瑞」の「碑」
や、血気盛んな「新選組」の残した「柱の刀
傷」、「初代局長」として知られる「芹沢鴨」
が「大酒」を喰らった夜に、同士である「近
藤勇一派」によって「粛清(暗殺)」された
と言う「逸話」等が、残されている訳なのだ
そうです。
ちなみに、「揚屋」や「置屋」文化を継承す
る「角屋」や「輪違屋」の他にも、下記のよ
うな「島原の人気スポット」がある事で知ら
れています。
1):『島原大門』
→現存する「見返り柳」が有名です。
2):『きんせ旅館』
そもそもは、今から「250年」ほど前の
「江戸時代後期」の頃、「井筒屋」と呼ばれ
る「揚屋(高級料亭)」として創建された建
物なのだそうです。
その後「明治維新」となった事をきっかけ
に、「旅館業」を加えたそうで、更に「大正
時代末期」になると、現オーナーの「祖父
母」にあたる人物に買い取られて、随所に
「ステンドグラス」や「泰山タイル」等を取
り入れた、「大正ロマン」溢れる「和洋折
衷」の「洋風モダンなテイスト」の姿に、リ
ニューアルされるに至った訳なのだそうで
す。
現在ではほぼ当時のまま残されている「レト
ロな雰囲気」が、「人気のスポット」になっ
ている訳なのだそうです。
3):『島原・乙文』
→創業「100周年」を迎える老舗料理屋で
す。
また、現在日本で唯一、「太夫」を抱える
「置屋&揚屋、輪違屋」への「仕出し供給
店」として、知られているのだそうです。
4):『太夫最中』
→「老舗、伊藤軒」が作る「島原銘菓」とし
て人気なのだそうです。
注文してから「最中」に「餡」を詰めるのが
特段に美味しいと、人気の秘訣なのだそうで
す。
こうして、「角屋(もてなしの文化美術館)」
や、「輪違屋(現役の置屋&揚屋)」と共に、
現在の「島原」には、依然として歴史の痕跡
が散りばめられている事から、「隠れた京都
の観光スポット」として知られている訳なの
だそうです。
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
4.角屋(すみや)







