食育クイズ:【Vol.1951】「京都府」の「京春日」おさらいクイズ! 「狛鹿」と「名水・瀬和井」が名物の「京都」の神社は?

 

食育クイズ:【Vol.1951】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都」にある「藤原氏」の

 

「祖神」が祀られている「神社」について、

 

おさらいクイズ(Vol.1951)にチャレンジ

 

致しましょう。

 

 

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「飛鳥時代」の「645年」に勃発した「中

 

大兄皇子(後の天智天皇)」と「中臣鎌足

 

(後の藤原鎌足)」による、「大豪族、蘇我

 

氏」の「暗殺事件」から始まった、いわゆる

 

「大化の改新」と呼ばれる「一連の歴史的統

 

治体制改革」は、「豪族」が支配する「統治

 

体制」から脱却し、「中国」の「律令制度」

 

を取り込み、「天皇」を中心とする「中央集

 

権国家体制」へと以降させる、「大変容の時

 

代」だった事で知られています。

 

 

「蘇我氏暗殺」の翌年の「646年」に、「朝

 

廷」から発令された「改新の勅(みことの

 

り)」に始まった、「律令制」を取り込んだ

 

「新統治体制」事業は、その後「中大兄皇

 

子(後の第38代、天智天皇」と「大海人皇

 

子(後の第40代、天武天皇)」との、若き

 

「2人の皇子(兄弟)」を中心に推進されて

 

いったのだそうで、やがて「701年」に

 

「大宝律令」が発令された段階で、一連の

 

「改新事業」が完成するに至ると言う経緯

 

になったのだそうで、「歴史的」に言えば、

 

この時をもって「奈良時代の始まり」と言わ

 

れている訳なのだそうです。

 

 

こうして「中大兄皇子(後の天智天皇)」の

 

「腹心」となって大活躍した「中臣鎌足」

 

は、「669年」に「56歳」で逝去する直前

 

に「天智天皇」から「内大臣」に任ぜられ、

 

併せて「藤原」の姓を賜った事で知られてい

 

て、これが「平安時代」の「藤原氏全盛」へ

 

の始まりとなったと言われている訳なのだそ

 

うです。

 

 

「奈良時代」に入ると、「鎌足」の「次男、

 

藤原不比等」が、「大宝律令の制定」や、「平

 

城京遷都」等に深く関わり、「朝廷」の中枢

 

としての勢力を得るに至った事で知られてい

 

ます。

 

 

「不比等」には、「5人の妻」がいて、「9

 

人」の「子女」を儲けた事で知られています

 

が、「5人の娘」のうち「宮子」が、「第42

 

代、文武天皇夫人」、及び「第45代、聖武

 

天皇の母」となり、また「光明子」が、「第

 

45代、聖武天皇皇后」、及び「第46代、孝

 

謙天皇の母」、及び「重祚」した事によっ

 

て、「第48代、称徳天皇の母」となった事

 

で、「不比等」が凄まじい権力闘争に勝利し

 

て、「天皇」の「外戚」の地位を獲得した事

 

で知られています。

 

 

 

 

更に「4人の息子達」に対して、それぞれに

 

「南家」・「北家」・「式家」・「京家」のいわゆ

 

る「藤原4家」を起こし、「藤原家」の未来

 

永劫の隆盛を期すに至ったのだそうで、その

 

中でも特に「北家」は、「平安時代」の「藤

 

原氏全盛」の始まりとなった訳なのだそうで

 

す。

 

 

こうして「天皇の外戚」としての足場を固め

 

た「藤原氏」は、「第48代、称徳天皇」の

 

「外祖父」としての足場を固めていた事もあ

 

って、これからの「藤原一族」の「未来永劫

 

の繁栄」と、「一族の祖神」からの「御加

 

護」を祈願する為に、新しく「神社」を建立

 

する為の、「称徳天皇のお墨付き(勅命)」を

 

得るに至り、「768年」に「神山」と言われ

 

ていた「御蓋山(みかさやま:春日山)」の

 

「山麓」に、「4つの社殿」を造営し、その

 

それぞれに、「日本神話」において「豊葦原

 

中国(とよあしはらのなかつくに)」の「国

 

作り」を完成させ、「大国主命(おおくにぬ

 

しのみこと)」との「国譲り」の交渉に成功

 

した事で知られる「武甕槌命(たけみかづち

 

のみこと)」と、「経津主命(ふつぬしのみこ

 

と)」との「2柱の神様」を始め、「藤原氏の

 

祖神」として知られる「天児屋根命(あめの

 

こやねのみこと)」と、その「妻」の「比売

 

神(ひめがみ)」との「4柱の神様」を祀る

 

に至ったのだそうで、それが「奈良、春日大

 

社」の始まりとなった訳なのだそうです。

 

 

 

さて、本日は、「第50代、桓武天皇」によ

 

る「長岡京」や「平安京」への「遷都」以降

 

に、「藤原氏」が「京都の地」に創建した、

 

「奈良、春日大社」の「分社」となる「神

 

社」について、おさらいクイズにチャレンジ

 

致しましょう。

 

 

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「葦原中国(あしはらなかつくに)」の「国

 

造り」をした事で知られる「武甕槌命(たけ

 

みかづちのみこと)」等の「天津神」は、「奈

 

良、春日大社」が創建された「御蓋山(みか

 

さやま)=春日山」へ勧請されるに当たっ

 

て、「白鹿」に乗って来られたと言う「伝

 

承」があり、以来「春日」の「神鹿」は「神

 

様の御使い」として、大切に扱われるように

 

なるに至ったと言う経緯があるそうです。

 

 

 

現在では「奈良の鹿」は、「国の天然記念

 

物」に指定されていて、「奈良公園」を中心

 

とした地域に、「約1,300頭」の「鹿」が生

 

活している訳なのだそうです。

 

 

 

 

その後「第50代天皇」となった「桓武天

 

皇」は、「道鏡」の出現で、強大化し過ぎ、

 

「皇統の継承危機」にまでに及んでしまった

 

「奈良、仏教勢力」から逃れる為に、「遷

 

都」を決行するに至った事で知られていま

 

す。

 

 

 

「出家」したまま重祚して「天皇」になった

 

「称徳天皇」は、その後も「道鏡」を寵愛し

 

続け、「皇室」と「奈良仏教勢力」との「2

 

頭政治」と言う、非常に「仏教」に傾倒した

 

「政治」を執り行いました。

 

 

更に「初代、神武天皇」以来、「1400年」

 

以上に渡り「父系の血統」で継承し続けてき

 

た「皇統の歴史」が、「忠臣、和気清麻呂」

 

によって寸前のところで防がれたとは言うも

 

のの、

 

~『道鏡を天皇にすれば国が平和になる』~

 

と言う、「虚偽」の「宇佐八幡宮の神託事

 

件」が勃発してしまい「王朝断絶」の危機も

 

あった訳であり、「称徳天皇」の「崩御」に

 

より、事態が自然消滅するまでの「6年間」

 

に渡り、「奈良仏教勢力」が「皇室」に及ぼ

 

す「悪影響」を目の当たりにして、どうして

 

も避けざるを得なかったと言うのが、「遷都

 

決行」の大きな要因の一つだったとも、言わ

 

れている訳なのだそうです。

 

 

以上のような経緯から、「784年」に「長岡

 

京遷都」を決行するに至った訳なのですが、

 

その初期段階で、「遷都」の遂行責任者であ

 

る「藤原種継」が謀殺される等と言った、

 

「遷都を妨害する動き」があった事から、そ

 

の「10年後」には「平安京遷都」を決行す

 

るに至ると言う経緯となった訳なのです。

 

 

こうして並々ならぬ決意のもと、「長岡京遷

 

都」が決行された訳なのですが、その際、

 

「桓武天皇」の「皇后、藤原乙牟漏(ふじわ

 

らおとむろ)」が、新しい「都」の「王城鎮

 

護」を期して、「長岡京」の「西側」にある

 

「小塩山」の「山麓」に、「神社」を創建し

 

て、「奈良、春日大社」に鎮座している「4

 

柱の神様」を「勧請」し、祀りたい、と「天

 

皇」に進言するに至ると言う経緯となった訳

 

なのだそうです。

 

 

ちなみに、この「神社」は「狛鹿」が安置さ

 

れているのだそうで、これは、「御本尊」で

 

ある、「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」

 

が、

 

~『白鹿に乗って御蓋山に降臨した』~

 

と言う「伝承」にちなんでいるからなのだそ

 

うです。

 

 

さて、本日は、この「奈良、春日大社」から

 

「分社」された「京都の神社」について、お

 

さらいクイズにチャレンジ致しましょう。

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

問題:「奈良、春日大社」の分社である事か

 

ら、「御本尊」の「神鹿の逸話」にゆかりの

 

ある、可愛らしい「紅白一対の神鹿の土鈴」

 

や、「神鹿のおみくじ」、「神鹿の張り子」等

 

の授与品が人気な「京都の神社」がありま

 

す。

 

 

さて、それでは、「第56代、清和天皇」の

 

「産湯の清水」と言う「名水、瀬和井(せが

 

い)」がある事から、「左大臣、藤原冬嗣」や

 

「紀貫之」、「大友家持」、「大江匡房」等の著

 

名な「歌人」によって、「和歌」にも詠み込

 

まれている事で知られる、「藤原氏」と深い

 

「縁(えにし)」がある「京都の神社」と

 

は、何でしょうか?

 

 

 

 

次のうちから選んで下さい。

 

 

1.大原野神社(おおはらのじんじゃ)

 

 

 

2.吉田神社(よしだじんじゃ)

 

 

 

3.西院春日神社(さいいんかすがじんじゃ)

 

 

 

4.岡崎神社(おかざきじんじゃ)

 

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓ 

 

 

【解説】

 

 

深刻な「皇統継承の危機」を乗り越えた「平

 

城京の王朝」は、強大化した「奈良、仏教勢

 

力」から逃れる為に、「第50代、桓武天

 

皇」による「長岡京遷都」を決行した事で知

 

られています。

 

 

 

 

この時、「桓武天皇」の「妻」である「天皇

 

后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)」

 

が、「藤原氏」の「祖神」を祀ってある「奈

 

良、春日大社」への信仰を守り抜きたいとし

 

て、「長岡京」の「西側(京都、西京区、大

 

原野)」にある「小塩山」の山麓に、「春日大

 

社」の「4柱の神様」を「勧請」して祀った

 

のが、「大原野神社」の始まりだったと言わ

 

れている訳なのだそうです。

 

 

以降「大原野神社」は、「京都」で初めて

 

「奈良、春日大社」の「神様」を分社して祀

 

った事から、人々から「京春日」と呼ばれる

 

ようになった訳なのだそうです。

 

 

 

 

ちなみに、「奈良時代後期」から始まった、

 

「皇室」と「藤原氏」との「外戚関係」は、

 

その成果として、「第48代、称徳天皇」の

 

「外祖父」となった事から、念願の「新しい

 

神社創建」の「勅命」を得るに至り、「藤原

 

氏の祖神」を始め、「国作りの神様」等の

 

「4柱の神様」を祀る、「奈良、御蓋山、春

 

日大社」を創建するに至った事で、以降「藤

 

原一族」は、「春日大社の神々」からの「多

 

大なご利益」を得るに至った訳なのだそうで

 

す。

 

 

 

ちなみに「藤原北家」が「京都」に創建した

 

「大原野神社」と「吉田神社」は、全て「春

 

日大社の4柱の神様」を「御本尊」として祀

 

られた事もあって、世の人々から、「藤原氏

 

の氏神三社」と呼ばれる様になった訳なのだ

 

そうです。

 

 

 

ちなみに「第50代、天皇后」となった「藤

 

原乙牟漏」は、僅か「14歳」で「23歳」

 

も年の差がある「山部親王(後の桓武天

 

皇)」の元へ嫁ぎ、その後「春日大社」の

 

「ご利益」もあってか、奇跡的に「桓武天

 

皇」の「即位」が成就し、彼女は「24歳」

 

で「皇后」にまで昇り詰めたと言う経緯があ

 

る訳なのだそうで、「桓武天皇」が様々な

 

「遷都妨害勢力」からの抵抗を受けながら

 

も、「長岡京遷都」を決行するに至ったと言

 

う経緯を補佐する為にも、「奈良、春日大

 

社」の「神々の御加護」を得る事が必須であ

 

るとし、「長岡京の守護神」として「大原野

 

神社」を創建するに至った訳なのだそうで

 

す。

 

  

「乙牟漏」は単に美しいだけでなく、淑やか

 

で聡明な女性として、気性の激しい「桓武天

 

皇」を内から支えた事で知られ、そんな若き

 

「皇后」を「天皇」は深く愛し、信頼してい

 

たと伝えられていて、それが故に、「奈良時

 

代後期」から続いた「王朝」の激しい「政治

 

闘争」の中、この二人の間にある素晴らしい

 

信頼の絆があったからこそ、「遷都」が決行

 

されるに至った訳であり、それが「遷都直

 

後」の「京春日の創建」へと繋がった、と言

 

う経緯となった訳なのだそうです。

 

しかしながら「遷都後」には、以下に挙げた

 

ような、「乙牟漏」を悲しませる「血生臭い

 

事件」が、これでもかと襲来してしまった事

 

で知られています。

 

●「長岡京遷都」の「実行責任者」である、

 

「乙牟漏」と同じ「藤和式家」の「従兄弟」

 

にあたる「藤原種継」が、「遷都」を妨害し

 

ようとする「平城京の勢力」によって暗殺さ

 

れてしまった。

 

 

●「乙牟漏」と「桓武天皇」との間に、「皇

 

子」が生まれた事によって、「桓武天皇」

 

は、その「皇子」を、「次期天皇(第51

 

代、平城天皇)」として一本化すべく、当初

 

「皇太子」であった「桓武天皇の実弟、早良

 

親王」を、「種継暗殺」の「奈良仏教勢力」

 

に加担したとして「流罪」にし、「親王」は

 

無実を訴えながら「憤死」した。

 

 

●まるで「早良親王」の「憤死」に伴う様

 

に、「乙牟漏」の最愛の「母親」が逝去し

 

た。

 

●「長岡京」に「大洪水」が襲った。

 

●「洪水」後の「後遺症」も要因となり、

 

「長岡京」に「疫病(天然痘)」が蔓延し

 

た。

 

●度重なる「災い」が発生した事から、「長

 

岡京」の「宮中」から「平民」に至るまで、

 

四六時中あらゆるところで、「早良親王の祟

 

り」の「噂」が囁かれるようになってしまっ

 

た。

 

 

●「乙牟漏」は、「皇女、高志内親王(第

 

53代、淳和天皇の皇后)」を出産した後、

 

「産後の肥立ちの悪さ」に苦しめられるよう

 

になってしまった。

 

●「長岡京」に蔓延していた「疫病(天然

 

痘)」が、「乙牟漏」自身を苦しめるようにな

 

ってしまった。

 

以上のような様々な要因が「乙牟漏」を苦し

 

め続けた結果、「790年」に、宮中で倒れた

 

「乙牟漏」は、「31歳」と言う若さで「急

 

逝」してしまうに至ったのだそうで、それに

 

に併せて、「種継」と「乙牟漏」とを立て続

 

けに失った「藤原式家」は、衰退へと向かっ

 

てしまうと言う経緯となったのだそうです。

 

 

こうして自身の「母親」と「妻」を立て続け

 

に失ってしまった「桓武天皇」は、更に「力

 

技」で「皇太子」に擁立した「皇子」までも

 

が「重病」に臥してしまうに至った事もあっ

 

て、旧体制の抵抗勢力から抜け出せない「長

 

岡京」を「10年」で捨て、「平安京遷都決

 

行」を決断するに至った訳なのですが、この

 

経緯を、言葉を変えて総括すると、「最愛の

 

妻、乙牟漏」が、自らの「命」と引き換え

 

に、「奈良時代後期」から「皇室」や「王

 

朝」を苦しめ続けた、様々な旧勢力を排除

 

し、「平安京遷都」へと導いた「人物」だっ

 

たとも、言い換える事が出来る訳なのです。

 

「早逝」したものの、「乙牟漏」が残した

 

「功績」には、計り知れないものがある訳な

 

のであり、「第51代、平城天皇」、「第52

 

代、嵯峨天皇」と言う「2人の天皇」の「母

 

親」となった事や、「第53代淳和天皇の皇

 

后」となった「皇女」の「母親」となった事

 

を始め、「藤原式家」は衰退したものの、そ

 

れに代わって「藤原北家」が「大隆盛」と

 

なる経緯を導いた「人物」となった訳なので

 

あり、「日本史上」に燦然と輝く、「平安時代

 

の文化形成」への「土台を構築した人物」と

 

も、言われている訳なのだそうです。

 

 

 

 

ちなみに「乙牟漏」が創建した「大原野神

 

社」は、「平安京遷都後」も、「皇室」を始

 

め、「藤原家」からの篤い「庇護」を受け、

 

「国家鎮護の神社」として、常に「朝廷」か

 

らの「殊遇」を受けるに至ったのだそうで、

 

以降、「国家的な重大事」や「天変地異」が

 

生じた時には、「使者」が遣わされて「奉

 

幣」を受けると言う、「二十二の神社」の中

 

の一つに列せられた事で知られている訳なの

 

だそうです。

 

 

やがて「皇室」と「藤原北家」と「外戚関

 

係」が確立すると、「大原野神社」にも、以

 

下のような変化が生じたのだそうです。

 

●「850年」、「天皇の外戚」として足場を

 

固めた「藤原北家」の「左大臣、藤原冬嗣」

 

の「孫」にあたる「第55代、文徳天皇」

 

が、「奈良の春日大社」を倣った壮麗な「春

 

日造の4つの社殿」を造営し、正式に「大野

 

原神社」と命名するに至った。

 

 

 

 

●翌年の「851年」以降から、「勅祭」が行

 

われるようになり、以降、「藤原氏一族」

 

は、「女児」が生まれると、「中宮」や「皇

 

后」になれるように、「参詣」し、「祈願」す

 

る事が「習わし」となり、その後「祈願」が

 

「成就」して「地位」につくと、出来る限り

 

の「壮麗な行列」を整えて、「参拝」する事

 

が、「通例」になるに至った訳なのだそう

 

で、特にその中でも、「1005年」に行われ

 

た、「中宮、藤原彰子」が行啓した時は、「御

 

父、左大臣、藤原道長」を始め、「紫式部」

 

以下の「女官」達が「お供」をし、その行列

 

の「絢爛さ」は人々の眼を見張らせた、と言

 

う事が、「語り草」になっている訳なのだそ

 

うで、こうして「大原野神社」は「藤原一族

 

(北家)」に多大なご利益を齎すに至った訳

 

なのであり、日本独特の「平安時代の文化形

 

成」を象徴する存在の一つとして数えられて

 

いる訳なのです。

 

 

 

 

 

ちなみに、現在にまで伝承されている、「大

 

原野神社」にゆかりのある有名な「和歌」や

 

「逸話」とは以下の通りです。

 

●「第55代、文徳天皇」と「藤原北家」の

 

「藤原明子(染殿皇后)」との間に生まれた

 

「第56代、清和天皇」の「産湯」に使われ

 

たと言う伝承があるのが、「名水、瀬和井

 

(せがい)」であり、現在では「瀬和井」の

 

脇に「大原野神社」にゆかりのある「著名な

 

歌人」が詠んだ、「4首の歌の碑」が掲げら

 

れている事で知られています。

 

 

 

1)左大臣、藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)

 

~『大原や 小塩の山のほととぎす われに神

 

代のことを かたらなん』~

 

【口語訳】:~『小塩山(おしおやま)のほ

 

ととぎすよ、私に神代の昔の懐かしい話を語

 

っておくれ』~

 

 

2)紀貫之(きのつらゆき)

 

~『大原や 小塩の山の小松原  はや木高かれ

 

千代の蔭見ん』~

 

【口語訳】:~『小塩山の小松原よ、早く大

 

きく生長してくれ、千年の立派な木陰を見た

 

いものだ』~

 

 

3)大伴家持(おおともやかもち)

 

~『大原や せがいの水を手にむすび  鳥は鳴

 

くとも遊びてゆかん』~

 

【口語訳】:~『大原の瀬和井の清水を手で

 

掬って飲もう。たとえ鳥が鳴いて急かそうと

 

も、もう少しここで楽しく遊んでいこう』~

 

 

4)大江匡房(おおえのまさふさ)

 

~『夜を寒み せがいの水は氷るとも  庭燎は

 

春のここちこそすれ』~

 

【口語訳】:~『夜があまりにも寒いので、

 

せがい(井戸の周囲の囲いや溝)の水はカチ

 

カチに凍りついてしまっているけれど、宮庭

 

で焚かれている庭燎(にわび)の火の温かさ

 

に、まるで春が来たかのような心地がするこ

 

とよ』~

 

 

また、「第56代、清和天皇」の「皇后」と

 

なった「藤原北家」の「藤原高子」は、「25

 

歳」で「入内」し、「清和天皇」の「女御」

 

となり、「陽成天皇」の「母親」となった事

 

で知られていますが、実は「清和天皇」に仕

 

える以前の「18歳」の頃、「清水寺」で

 

「35歳」の「在原業平」と出会い、二人は

 

恋仲になってしまったのだそうです。

 

 

 

 

 

高貴な身分であった「高子」と「業平」とで

 

は「身分」が合わず、「藤原家」の権力者た

 

ちは、二人の関係を許す訳にはいかなかった

 

ので、「業平」から「高子」を引離そうとす

 

るのですが、反対すれば反対するほど、二人

 

の恋は更に燃え上がる一方で、密かに逢瀬を

 

重ね、二人の間には、後世に残るレベルの

 

「美しい恋の歌」が多数積み上げられていく

 

に至った事で知られている訳なのです。

 

恋人同士の二人の中で、特に有名な「逸話」

 

は、「業平」が「高子」を奪い去ろうとして

 

「駆け落ち」まで試みたと言うエピソードな

 

のだそうで、それでも周囲の力によって引き

 

離されてしまうに至ったのだそうです。

 

 

その後「高子」は「業平」との「恋」を諦

 

め、「25歳」で「後宮」に入り、「27歳」

 

で「第一皇子(後の陽成天皇)」を出産する

 

に至った訳なのだそうで、その翌年には僅か

 

「2歳」の「皇子」が「皇太子(東宮)」に

 

立てられるに至った事から、「高子」は、「東

 

宮の御息所(みやすどころ)」となり、「業

 

平」との距離は遥か彼方へと離れてしまった

 

訳なのだそうです。

 

「御息所」となった「高子」は盛大な「行

 

列」を従えて「大原野神社」に「行啓」する

 

に至った訳なのですが、その「行列」の中

 

に、かつて「駆け落ち」までした「最愛の恋

 

人、業平」が、「近衛府(皇室の警備を担う

 

役所)」の「役人の任務」で、「随行」してい

 

たのだそうです。

 

その後「参詣」が終わると、「高子」の従者

 

達が、お供をした人々に「褒美の品」を配布

 

する事が、「習わし」となっていたのだそう

 

ですが、「業平」の姿を認めた「高子」は、

 

「人づて」では無く、直接「御所車」まで呼

 

び寄せ、「褒美」を直接「下賜」するに至っ

 

たのだそうです。

 

しかしながら「業平」は、身分の差や多くの

 

人々の「(監視の)目」がある事から、直接

 

言葉を交わす事も出来なかったので、以下の

 

ような「歌」を詠んで、自らの思いを「高

 

子」だけに分かるように、伝えるに至った訳

 

なのだそうです。

 

~『大原や小塩の山も 今日こそは 神代のこ

 

ともおもひいづらめ』~

 

【口語訳】:~『大原野神社よ。小塩山も今

 

日は、神代のことを思い出していることだろ

 

う』~

 

この「歌」を聞いた周囲の人々は、「表面上

 

の内容」だけ受け止め、「業平」と「高子」

 

の間でしか分からない「本意」には、気づか

 

なかった訳なのだそうです。

 

~『天孫「ニニギノミコト」が「天孫降臨」

 

をした時に、「藤原氏の祖神」である「アメ

 

ノコヤネノミコト」が、随行し、守護したと

 

言う「伝承」がありますね…。そして「藤原

 

氏の末裔」である「御息所」が「参詣」して

 

いる「今日」だからこそ、「小塩山」もその

 

「神話」や「昔」の事を、きっと思い出して

 

いる事でしょうね…』~

 

こうして、確かに表面上は「神話の話」を詠

 

んだ「歌」のように見えますが、「高子」か

 

ら見れば、

 

~『若き頃の私達は通じ合っていましたね…

 

あの昔の頃を、きっと貴女は思い出して下さ

 

っているからこそ、直接「褒美」を下さった

 

のでしょう…』~

 

と読み解けたのだと言われている訳なのだそ

 

うです。

 

こうして「御所車」の中にいる「高子」にだ

 

けは、

 

~『年月が経過していても、私は貴女の事を

 

思い続けているのですよ』~

 

と言う「業平」からの「恋慕の心」が伝わっ

 

たと言う事なのだそうです。

 

現在でも、「京都」では特にそうですが、物

 

事を相手に伝えるのに、ストレートな表現を

 

せず、遠隔的な表現で伝える、と言う「幽玄

 

の精神文化」が残っている訳であり、これは

 

「平安時代」から培われてきた「日本人の精

 

神文化」なのだと言われている訳なのです。

 

 

↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓

 

 

2.大野原神社(おおはらのじんじゃ)

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食育&6次産業化推進センターは、食の国家的安全保障をめざし、日本人の命と健康を守るため、真の食の安心・安全とは何かというテーマを、食育活動や6次産業化推進活動をベースに追求する国家戦略プロフェッショナルの仕事をしています。