【食育クイズ:Vol.1474】「京都府」の「日蓮宗(法華宗)」おさらいクイズ! 日蓮聖人の高弟が京都で布教し、創建した寺院とは?

 

【食育クイズ:Vol.1474】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」で「日蓮宗」

 

布教に尽力し、「妙顕寺」を創建した

 

「僧侶」について、おさらいクイズ

 

(Vol.677)にチャレンジ致しましょ

 

う!

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

「鎌倉時代」の僧侶で、「日蓮宗(法華

 

宗)」の開祖として知られる「日蓮聖人」

 

は、「1222年」に、「安房国(あわのく

 

に:千葉県)」で生まれ、16歳で出家

 

し、「承久の乱」で「真言密教」の「祈

 

禱」を用いていた「朝廷方」が、「鎌倉

 

幕府方」に敗れたのは何故か?とか、

 

「仏教」の内部に、何故多くの「宗派」

 

が分立し、争っているのか?等と言った

 

疑問を持つに至り、その「答」を知る為

 

に、「比叡山延暦寺」を始め、「園城寺」

 

や「高野山」等を「遊学」するに至った

 

そうです。

 

 

その後「32歳」になった時、「世の中」

 

が「末法の世」に入っている事を再確認

 

し、それが故に「大流行」していた「浄

 

土教の教え」である「念仏」や「禅宗」

 

を真っ向から否定し、「南無妙法蓮華経」

 

の「題目」のみを唱える「専修唱題行」

 

を主張するに至ったそうです。

 

その後「1260年」になると、時の最高

 

権力者であった「鎌倉幕府、第5代執

 

権、北条時頼」に対して、「立正安国論」

 

を提出し、「末法の世」到来で「日本国」

 

が乱れに乱れているのは、「法然」の

 

「浄土宗」の教えである「専修念仏」が

 

「大流行」している為であり、これが

 

「世の中」に蔓延している限り、「悪鬼」

 

が「日本の国土」に入り込んでしまい、

 

「国土」を守るべき「諸天善神」が入っ

 

て来られなくなるとして、このまま「専

 

修念仏」の「悪法」への帰依を、「幕府」

 

や「他宗派の僧侶」達が続けていれば、

 

「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難

 

(他国からの侵略)」が起こり、「日本国」

 

は滅亡してしまうと「予言」し、時の

 

「権力者」達に対して「警告」するに至

 

ったそうです。

 

 

 

こうした「日蓮」による、徹底した「海

 

外からの脅威」に対する「守護国家論」

 

と、「念仏批判」に対して、「禅宗」や

 

「浄土宗」を支持する「鎌倉幕府」は、

 

完全に「無視」するに至り、他の「仏教

 

勢力」からは激しい反発を招いたそうで、

 

「日蓮宗」は「邪教勢力」として、「迫

 

害や襲撃」の的になってしまうと言う経

 

緯となった訳なのだそうです。

 

その後「1268年」になると、「蒙古」

 

から「鎌倉幕府」に「国書」が届き、

 

「日蓮聖人」の「予言」通りに「日本侵

 

略」の危機が現実となった事を受けて、

 

「日蓮」は、「第8代、執権、北条時宗」

 

を始め、「平頼綱」、「建長寺、蘭渓道隆」、

 

「極楽寺、良観」等に対して、「書状」

 

を送り、「他宗派」との「公開対決」を

 

迫るに至ったそうですが、「幕府」や

 

「諸宗派」を批判したとされ、捕らえら

 

れ、「佐渡」へ「流罪」となってしまう

 

に至ったと言う経緯となったそうです。

 

その後いよいよ「蒙古襲来」が眼前に迫

 

った「文永11年(1274年)」になる

 

と、「幕府」は「日蓮」を「釈免」とし、

 

「蒙古来襲」の「予見」を聞くに至った

 

そうですが、「日蓮」は、「よも今年はす

 

ごし候はじ(年内中には襲来されるでし

 

ょう:撰時抄)」と答え、と同時に、直

 

ちに「邪教」への帰依をやめ、「法華経」

 

を立てよと言うに至り、「幕府」に対し

 

て、実に「3度目」の「諌暁」を行った

 

そうです。

 

その5ヶ月後に「第1回目」の「元寇

 

(蒙古襲来)」が勃発し、「戦闘」そのも

 

のは「日本側」に幸運があり、一週間ほ

 

どで終了した訳なのですが、「日本側」

 

の被害は甚大だったと言う結果となった

 

訳なのです。

 

 

「日蓮」はこの「蒙古襲来」を深く受け

 

止め、その意味を思索するに至った訳で

 

あり、その結論を「文永の役」の「翌年」

 

の「建治元年(1275年)」に、「撰時抄」

 

に記して出すと言う経緯となった訳なの

 

です。

 

「撰時抄」の内容は、それまでの「日蓮」

 

が主張した通りの、「法華経」に従わな

 

い「真言僧」や「禅僧」、「念仏僧」達に

 

よる「敵国降伏の祈禱」をやめさせる事

 

を始めとして、「末法の世」とは、「お釈

 

迦様の「白法」が隠没し、それに代わっ

 

て「南無妙法蓮華経」の「大白法」を

 

「流布」させる時代であると言う内容で

 

あり、「日蓮聖人」の「弘通」する「南

 

無妙法蓮華経」こそが、従来の「仏教」

 

を超越した「教え」なのであると言う事

 

を明確に示したものだったのだそうです。

 

その後「1281年(弘安4年)」になる

 

と、「2回目」の「元寇(蒙古襲来)」が

 

勃発し、前以上の、「モンゴル人」を主

 

力とした「蒙古軍、約40万人」人が動

 

員され、日本を襲来するに至ったそうで

 

す。

 

 

この「弘安の役」は、前回の「文永の役」

 

と同様に、「日蓮聖人」の提唱した「他

 

国侵逼難」の「予言」の正しさを証明す

 

る機会となった訳なのですが、その一方

 

で「承久の乱」の時のように、「真言僧

 

都」達による「祈祷」が「無効」だった

 

訳では無く、むしろ「台風」による「奇

 

跡」が起きて勝利してしまった事で、

 

「祈祷」が「有効」とされてしまった訳

 

なのです。

 

 

こうして「日本中」が、この「一時的な

 

僥倖」に浮かれる状況となった訳なので

 

すが、「日蓮」の主張を決して取り入れ

 

ない「幕府」の姿勢に対して、「蒙古襲

 

来」等を始めとする「海外の脅威」によ

 

る「危機」は、今後も必ず続くとし、

 

「危機意識」を強く持った「政治」執り

 

行うべきであると、厳しく戒めるに至っ

 

たそうですが、あいにくと、その「翌年」

 

の「1282年(弘安5年)」に、「日昭、

 

日朗、日興、日向、日頂、日持」の「六

 

老僧」を「後継者」と定めつつ、「武蔵

 

国、池上」で入滅するに至ってしまった

 

と言う経緯となった訳なのだそうです。

 

さて、本日は、この「日蓮聖人」が、自

 

らの「弟子」に対して「京都の地」で布

 

教を命じた「僧侶」について、おさらい

 

クイズにチャレンジ致しましょう!

 

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

問題:「三度」に渡り、「京都洛中」から

 

追放されながら、「衆生」の信望を得て、

 

「京都洛中」に戻り、広く「日蓮宗(法

 

華宗)」を普及させるに至った事で、「妙

 

顕寺」を開山した、「日蓮聖人」ゆかり

 

の「僧侶」とは、誰でしょうか?

 

 

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.日朗(にちろう)

 

 

 

2.日像(にちぞう)

 

 

3.日隆(にちりゅう)

 

 

 

4.日親(にっしん)

 

 

 

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【解説】

 

「妙顕寺」は、「鎌倉時代」の「永仁2

 

年(1294年)」に、「日蓮宗、宗祖」で

 

ある「日蓮聖人」から、「京都」での

 

「布教」の「遺命」を受けた「孫弟子」

 

である「日像上人」によって創建された

 

「日蓮宗」の「寺院」の事を言います。

 

 

 

 

「日像上人」は、「文永6年(1269

 

年)」に「下総国(千葉県)」で生まれ、

 

その後「建治元年(1275年)」に、「日

 

蓮聖人」の6名の「高弟」の一人であっ

 

ら「実兄」の「日朗上人」に師事した後、

 

「日蓮聖人」の「直弟子」となるに至っ

 

たと言う経緯があるそうです。

 

 

その後「弘安5年(1282年)」に、

 

「日蓮聖人」が入滅してしまった訳なの

 

ですが、「永仁元年(1293年)」になる

 

と、「日蓮聖人」からの「遺命」を果た

 

すべく、「京都」での布教を決意するに

 

至ったそうです。

 

 

「日像上人」は、まず第一に「日蓮聖人」

 

の「人生の足跡」を辿る事から始めたそ

 

うで、「聖人」の2年半に渡る「流刑の

 

地」であった「佐渡」に渡り、そこで

 

「法華経」を布教し、その後、「北陸、

 

七尾」に向かう途中の「船中」で出会っ

 

た「僧侶」との「法論」となったそうで、

 

その結果、その「石動山の僧呂、満蔵」

 

を弟子として「日乗」と名付けるに至っ

 

たそうです。

 

その「満蔵」と共に「石動山」に立ち寄

 

り、「法華経」を説いたそうなのですが、

 

「浄土衆」の念仏を信仰する「大衆」に

 

より「満蔵」共々追放されてしまうに至

 

ったそうで、「日蓮宗」に対する「風当

 

たりの強さ」は根強かった、と言う事が

 

伺い知れる訳なのです。

 

その後「永仁2年(1294年)」になっ

 

てから、ようやく「上洛」するに至った

 

「日像上人」は、根気よく「辻説法」を

 

続けていった結果、「帰依」する人々が

 

増え、「日像」に帰依した人物の「邸内」

 

に、「一寺」が建立されるに至り、「日像

 

上人」がその「開山」として招かれた事

 

によって、「卯木山妙法蓮華寺」と称す

 

る「寺院」となったのが、「妙顕寺」の

 

始まりと言われているそうです。

 

しかし、「徳治2年(1307年)」にな

 

ると、「日像上人」は、「延暦寺、東寺、

 

仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩院」と言

 

った、「京都」にあるほとんど全ての

 

「大寺」から、「浄土教の教え」を害す

 

る「邪教」とされ、迫害を受けるだけで

 

無く、それらの「大寺」が「朝廷」に

 

「合訴」した事によって、「上皇」から

 

「京都追放」の「院宣」が発せられるに

 

至ってしまったそうです。

 

しかしその後「延慶2年(1309年)」

 

には、「赦免」され、「京都(洛中)」へ

 

と再び戻る事が出来たそうなのですが、

 

「翌年」になると再び「諸大寺」から

 

「合訴」される事態となってしまい、

 

再度「京都追放」の「院宣」が発令され

 

てしまったそうです。

 

しかし「日像上人」に「帰依」する人々

 

が多かった事から、その翌年の「延慶4

 

年(1311年)」には、再度「赦免」さ

 

れて「京都(洛中)」へと戻ります。

 

するとその翌年の「元亨元年(1321

 

年)」になると、「三度目」の「諸大寺」

 

からの「合訴」があり、その結果「三度

 

目」の「京都追放」の「院宣」が発令さ

 

れるに至った訳なのですが、「帰依」す

 

る人々からの声が大きかった為、直ぐに

 

「赦免」されると言う経緯となり、「院

 

宣」を発令した「第96代、後醍醐上皇」

 

は、「日像上人」に対して「寺領」を与

 

えるに至る事となり、消失していた「寺

 

院」も再建され、「1334年(建武元年)」

 

には、「後醍醐上皇」から、「法華宗号」

 

を許されて、ようやく「勅願寺」となっ

 

たと言う経緯となった訳なのだそうです。

 

 

 

しかしながら、その後においても、「浄

 

土の教え」を真っ向から否定した「法華宗」

 

に対する風当たりは非常に強く、

 

度々「法難」に遭遇するに至ると言う経

 

緯となったそうで、「室町時代」の「嘉

 

慶元年(1387年)」の「破却法難事件」

 

を始め、「応永20年(1413年)」にも、

 

「比叡山、延暦寺」の「僧兵」による

 

「破却法難事件」があり、その都度「復

 

興」されていた訳なのですが、その後

 

「天文5年(1536年)」に、大規模な

 

「破却法難事件」が起き、「法華宗」の

 

「隆昌」に対する「他宗」からの凄まじ

 

い「妬み」が爆発し、「比叡山、天台宗」

 

の「僧兵」10万人規模による「大襲撃

 

事件」となった「天文法華の乱(法難)」

 

が起こり、「妙顕寺」や「妙蓮寺」を始

 

めとする「日蓮聖人、門下、21本山」

 

が悉く「焼失」しまうに至ったそうで、

 

「日蓮宗」の「僧侶」達は、「堺の地」

 

へと「避難」せざるを得ないと言う状況

 

になってしまったそうなのです。

 

その後「天文11年(1542年)」にな

 

ってから、「第105代、後奈良天皇」に

 

よって「法華宗、帰洛の綸旨」が「宣下」

 

されたそうで、「堺」に避難していた

 

「法華宗寺院」は相次いで「京」に戻る

 

事が出来た訳なのだそうです。

 

 

 

 

こうして「天文17年(1548年)」に、

 

「京都、二条、西洞院」に再建された

 

「妙顕寺」は、その後「天正12年

 

(1584年)」に、「天下人」となった

 

「豊臣秀吉」が「京都」に「聚楽第」を

 

建立すると言う経緯となり、その時に

 

「秀吉」の「命」により、その近隣であ

 

った現在地に移転すると言う経緯となっ

 

た訳なのだそうです。

 

 

ちなみに、「妙顕寺、境内」の「西側」

 

に隣接して「裏千家、今日庵」と「表千

 

家、不審菴」がある事で知られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

また、「妙顕寺」にある有名な「御会式

 

桜(おえしきざくら)」は、「日蓮聖人、

 

入滅」の日である「10月13日」頃か

 

ら咲き始め、「4月8日」の「お釈迦様」

 

の「誕生日」の頃まで咲き続ける「名物

 

桜」として知られていて、この「桜」の

 

「花びら」を持ち帰ると「恋が成就する」

 

と言う「伝説」がある事で知られている

 

訳なのだそうです。

 


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2.日像

 

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