【食育クイズ:Vol.1886】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「戦国大名、明智光秀」
にまつわる「明智風呂」について、おさ
らいクイズ(Vol.1086)」にチャレンジ
致しましょう!
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「戦国大名」の一人で、「織田信長」を
「本能寺の変」で自決に追い込んだ事で
知られる「明智光秀」は、「下剋上」や
「人材の引き抜き」が当たり前だった
「戦国の世の風習」に習い、「朝倉家」
→「細川藤孝」→「足利義昭」の「家
臣」と変遷し、最後は「織田信長」に仕
えた事で知られている「戦国武将」の事
を言います。
「光秀」が「信長」に仕える直前は、
「室町幕府」最後の「将軍」となった、
「第15代、足利義昭」の「家臣」だっ
たそうで、「義昭」の波乱万丈の運命に
引きずられるかたちとなった訳なのだそ
うです。
「義昭」は、「兄」である「足利義輝」
が、「室町幕府、第13代将軍」となっ
た事で、「仏門」に入り「出家」したそ
うですが、「1565年」に、「義輝」が、
「三好三人衆」によって暗殺された事を
きっかけとして、僧侶のまま「一乗院」
に幽閉されてしまうに至ると言う経緯と
なったのだそうです。
その後「義昭」は、「味方」からの助け
もあり、「一乗院」からの脱出に成功
し、「京都」から抜け出して「朝倉義
景」を頼って「越前」に逃亡し、その地
で「還俗」して、「角慶」から「義昭」
に改名し、「足利幕府将軍の座」を奪取
する為に、「元服」するに至った訳なの
だそうです。
その後「義昭」は、「越前国」で2年間
を過ごしながら、「義景」を始めとし
て、全国の諸大名に「再上洛」の協力要
請を出し続けていた訳なのですが、その
要請に応えたのが、「美濃国」の平定を
果たした「織田信長」だったと言う経緯
となった訳なのだそうです。
「義昭」からの「上洛要請」に協力し、
動く事を躊躇していた「朝倉義景」に見
切りをつけ、「信長」の協力を勧めたの
が、当時「義昭」の家臣だった「明智光
秀」だったのだそうで、結果として「光
秀」は、かつて仕えていた「朝倉方」を
裏切り、「織田方」に付き、「義昭」の
「上洛」に同行し、「信長」との仲介役
を見事に果たした訳なのだそうです。
こうした経緯から「光秀」は、「信長」
から高く評価されるに至り、「信長」の
「家臣」になると言う経緯となった訳な
のだそうです。
さて、本日は、この「明智光秀」にまつ
わる「明智風呂」について、おさらいク
イズにチャレンジ致しましょう!
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「明智光秀」は、「1571年」の「比叡
山焼き討ち」の際、「信長」からその
「実行部隊」の「指揮官」を命じられた
そうで、その任を果たした事で、「近江
(滋賀県)、5万石」を与えられ、「坂本
城」を築き、「一国一城の主」となった
訳なのだそうです。
更にその後の「1573年」に、「第15
代、将軍」となった「足利義昭」が「京
都」から追放されて「室町幕府」が滅亡
するに至った事から、以降「光秀」は、
「信長」の「重要な家臣」の一人となっ
た訳なのだそうです。
その「2年後」の「1575年」には、
「信長」から「京都、丹波地方」の平定
を命ぜられ、4年後しの「1579年」に
平定を成し遂げた事で、「丹波国、34
万石」を与えられた「光秀」は、「亀山
城」を築城し、「大大名」としての拠点
を持つに至った訳なのだそうです。
その際「光秀」は、大きな領地を統治す
る為に、人材登用の必要性が急務である
として、「美濃国」から「斎藤利三(さ
いとうとしみつ)」を、「光秀、五宿老」
の中の一人として引き抜き、「丹波、黒
井城、1万石」を与え、統治させるに至
った訳なのだそうです。
「利三」はその要望に応え、「黒井城」
統治の間に、後に「江戸幕府、第3代
将軍、徳川家光」の「乳母」としてその
名を残す、「春日局(かすがのつぼね)」
となった愛娘を授かった事で知られてい
る訳なのだそうです。
その後「光秀」は、更なる人材登用の必
要性を期し、「斎藤利三」を動かし、「美
濃国、稲葉家」から、その「家臣」を引
き抜くに至った訳なのだそうです。
こうしていくら「戦国時代」において
は、「下剋上」や、「人材の引き抜き」、
「寝返り」等が日常茶飯事であったとは
言え、「義理の息子」であった「斎藤利
三」を始めとして、「家臣」を無理やり
引き抜かれてしまった「美濃国、稲葉一
鉄」は、「信長」に対して、「訴訟」を起
こすに至ってしまった訳なのだそうで
す。
「訴訟」を受けた「信長」は、「稲葉
家」から無理やり引き抜いた「家臣」を
戻すように、「光秀」に命じるに至った
訳なのですが、その「命令」に対して
「光秀」は、
~『私が良き部下を登用し、領地の平定
を保つ事は、上様(信長)の為でもあ
る』~
と、理屈を唱えて反論してしまった為
に、「信長」からの「激怒」を誘い、「光
秀」は「髷(まげ)」を掴まれて突き飛
ばされた上に、「最重要家臣」の一人で
であった「斎藤利三」の「切腹」まで言
い渡される至ってしまった訳なのだそう
です。
以上のような経緯がきっかけの一つにな
ったかどうかは不明として、その事件の
「5日後」の「1582年、6月2日」
に、「光秀」は、「斎藤利三」を始めとす
る「5名の五宿老」達と共に、「1万3
千名」の兵を挙兵し、「信長」を「自
刃」に追いやった事で知られています
(本能寺の変)。
「本能寺の変」を知った「羽柴秀吉」
は、急遽遠征先の「備中、高松城」から
引き返し(中国大返し)、「6月13日」
に、「京都、天王山」の山麓にある「山
崎の地」で「明智軍」との戦いとなり、
敗戦した「光秀」は、「滋賀、坂本城」
を目指して落ち延びる途中の、「京都、
小栗栖(おぐるす)」で「落武者狩り」
の襲撃に遭遇し、殺害されてしまった事
で知られています。
以上のような「光秀」死亡の「5年後
(1587年)」に、「叔父」にあたる「臨
済宗の僧侶」である「密宗紹儉禅師(み
っしゅうしょうけんぜんじ)」が、「光
秀」の「菩提」を弔う為、「墓」では無
く、「主君」を討った「逆賊」と言う汚
名を洗い流し、身を清めると言う意味
で、「浴室」を建立するに至った訳なの
だそうで、以降この「浴室」は、「明智
風呂」と呼ばれるようになったと言う経
緯となった訳なのだそうです。
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問題:「本能寺の変」を起こした「明智
光秀」は、「中国大返し」で遠征先から
「京都」に引き返してきた「羽柴秀吉」
と、「山崎の戦い」で敗退し、「近江」の
「坂本城」に逃れる途中で、農民の槍に
倒れ、死亡した事で知られています。
さて、それでは、「光秀、追善」の為
に、叔父である「密宗禅師」が建立した
「明智風呂」がある「臨済宗」の「寺
院」とは、どれでしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.妙心寺
2.天龍寺
3.大徳寺
4.南禅寺
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「1587年(天正15年)」に、「妙心
寺、塔頭、大嶺院(おおみねいん)」の
「僧侶」であり、「明智光秀」の「叔
父」として知られる「密宗紹儉禅師」に
よって創建された「浴室」は、「甥」の
「明智光秀」の菩提を弔うために設けら
れたと伝えられている事から、「明智風
呂」と称されるようになった訳なのだそ
うです。
「明智光秀」は、「信長」に仕える前
に、「越前(福井県)」にいた事で知られ
ていますが、「明智軍記」を紐解くと、
その当時(1565年)には、「石川県、
加賀市」にある「山代温泉」に行き、
「十日間」程の「湯治」をした事が記載
されているのだそうです。
その他にも、「1570年」の時の記録
で、親しかった「京都の公家、吉田
家」に複数回訪問し、「石風呂」を借り
た事や、「1575年」には、その当時の
「居城」であった「滋賀県、坂本城」
に、「島津家久」を招き、「湯殿」で饗応
したと言う記録が残っている事から、
「光秀」は風呂好きだった可能性が強い
と言う事が、伺い知れる訳なのだそうで
す。
「光秀」が「公家、吉田兼見」に借りた
「石風呂」や、「島津家久」を招待した
「湯殿」は、当時の一般的な「風呂」と
して知られる、いわゆる「蒸し風呂」だ
った訳なのだそうで、今で言う「サウ
ナ」形式のものだったのだそうです。
「吉田家」の「岩風呂」訪問の記録の中
に、
『~早々に石を焼いた~』
と言う記載がある事からも、狭い湯屋の
中に熱した「石」を置き、それに水をか
け、立ち上る蒸気で室内を満たし、室温
が上がる事によって、発汗させ、身体を
こすった後、湯で流すと言う仕様のもの
だった事が伺い知れる訳なのです。
こうして「1587年(天正15年)」
に、「妙心寺、大嶺院」に創建された
「明智風呂」も、以上と同様の仕様だっ
たそうで、以来「昭和時代初期」の頃ま
での長きに渡り、「光秀」の「命日」と
される「6月14日」になると、「浴
室」を「信者」達に開放する、「施浴
(せよく)の行事」が執り行われていた
訳なのだそうです。
ちなみに「大嶺院」は、「明治期」の
「廃仏毀釈政策」によって、「江戸時代
初期」の「1606年」に「妙心寺80世
住持、鉄山宗鈍」が開祖となって創建さ
れた「妙心寺、塔頭、大龍院」と、合併
されてしまったのだそうで、現在では
「大嶺院」は存在していず、「大龍院」
として存続されていると言う経緯となっ
ている訳なのだそうで、「浴室」だけが
独立した「重要文化財」の「建造物」と
して、保存されているのだそうです。
ちなみに、「2024年(令和6年)」に、
「明智風呂」の老朽化の「修繕費用」不
足に伴い、「1300万円」を目標とした
「クラウドファンディング」の募集が行
われましたが、600人を超える人々か
ら「1780万円」の資金が集まったのだ
そうです。
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.妙心寺







