【食育クイズ:Vol.1436】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「八瀬の
里」に住む「八瀬童子」について、おさ
らいクイズ(Vol.639)にチャレンジ致
しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-八瀬童子.jpg)
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「八瀬童子(やせどうじ)」とは、古く
から「京都、八瀬の里」に住んでいる
「村落共同体」の人々の事を言います。
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「平安時代」には、「比叡山、延暦寺」
の「雑役」や、「駕輿丁(かよちょう:
高貴な人物の載る輿(みこし)を担ぐ
役)」を務めた事を始め、「室町時代」以
降になると、「天皇」の臨時の「駕輿
丁」も務めた事で知られています。
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ちなみに「伝説」によると、「平安時代
中期」頃に、「第66代、一条天皇」
は、当時「京の都」を脅かしていた「酒
呑童子」を征伐する為に、「源頼光」率
いる一軍を派遣した訳ですが、「頼光」
は警戒する「酒吞童子」に対して、身分
を偽り、酒を酌み交わす作戦に出て、大
量の酒を飲ませるに至ったそうです。
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すると酒に酔った「酒呑童子」は、自ら
の身の上を話し出したそうで、大の酒好
きな為に家来から「酒呑童子」と呼ばれ
ている事を始め、かつては「比叡山」に
隣接する「比良山(平野山)」に住んで
いたが、「伝教大師、最澄」が「比叡
山、延暦寺」を創建した為に、そこには
居られなくなり、結果として「849
年」頃には「大江山」に住みついた事等
を話した事が伝説として語り継がれてい
るそうです。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-180最澄、天台宗2.jpg)
この歴史的経緯を推察していくと、「平
安京遷都」を実行した「第50代、桓武
天皇」は、「皇室」を脅かすレベルにま
で巨大勢力となってしまった「奈良の仏
教勢力(南都六宗)」を切り離す目的が
あった訳であり、と同時に新しい「仏教
勢力構築」を目指し、「最澄」と「空
海」を重用するに至った訳で、こうして
「最澄」が創建した「比叡山、延暦寺」
は、今後「比叡山の地」を支配するの
は、「朝廷」が正当に認めた「天台教
団」であり、「酒呑童子」率いる「旧勢
力」は、「邪悪であり、怪物(鬼)」とし
て、追放したと言う事になるのだと推察
される訳なのです。
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「最澄」は、もともと「比叡山」に住ん
でいた「酒呑童子」を使役していたとも
言われていて、「比叡山」を追放するに
あたり、「近江国、己高山(こだかみや
ま)」に土地を与えて移住させたとも言
われているのですが、それを「桓武天
皇」が許さず、結果として「鬼隠しの
里」とも言われる「大江山」に移住する
に至ったと言う経緯になる訳なのだそう
です。
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以上のような「平安時代初期から中期」
にかけて起きた「平安京遷都」に伴う、
「朝廷」による「旧勢力の排斥」によ
り、「酒吞童子」は移住を重ね、最後は
「源頼光」によって征伐されてしまうに
至った訳なのですが、「比叡山」の西側
にあった「八瀬の里」には「酒呑童子」
の子孫と言われる人々が残り住み、「延
暦寺」の「寺役」等の仕事を担い続けた
と言う経緯となった訳なのだそうです。
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また彼等は、その出で立ちが「結髪」を
せず、長い髪を垂らしたままと言う姿で
あった事から、「大童(おおきな子供)」
の様に見えたそうで、その「履物」も、
「草履」を履いていて、まるで「子供」
を彷彿とされる様な「姿」であった為、
「八瀬童子」と呼ばれるようになったと
言う経緯となった訳なのだそうです。
さて、本日は、この「八瀬童子」につい
て、おさらいクイズにチャレンジ致しま
しょう!
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「白鳳時代」の「672年」に勃発した
「壬申の乱」の際、背中に矢を受けた
「大海人皇子」がこの地に「窯風呂」を
作り、傷を癒したと言う故事がある事か
ら、この地は「矢背」または「癒背」と
呼ばれるようになり、やがて転じて「八
瀬」となったと言う経緯がある事で知ら
れている「八瀬の里」では、その後、多
くの「窯風呂」が作られるに至ったそう
で、特に「遷都」後の「平安時代」以降
になると、主として「公家や貴族」達の
「湯治場」として知られるようになった
そうです。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-かま風呂橋の次-1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/420-八瀬のかま風呂.jpg)
と同時に、「桓武天皇」の意向により、
「最澄」が「比叡山、延暦寺」を創建す
ると、「八瀬童子」達は、「諸寺の雑役」
に従事すると共に、「天台座主」等「高
貴」な人達の「輿」を担ぐ役割も果たす
事が、仕事となっていったそうです。
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また、「延暦寺」の「参詣者」から謝礼
を取り、担いで「比叡山」に登山する事
も、仕事としたそうで、やがて「八瀬童
子」達が結集して、「比叡山」の「末
寺」であった「青蓮院」を本所として、
「八瀬里座」を結成するに至ると言う経
緯となったそうで、これは、記録による
と「寛治6年(1092年)」と記載され
ていて、記録上確認できる「日本最古の
座」とも言われているそうです。
その後「日本社会」は、「平安時代」が
終焉し、「鎌倉時代」を経て「南北朝時
代」へと変遷する「動乱の時代」とな
り、「1336年」には、「足利尊氏」の
「内乱」によって「京」を追われた「第
96代(南朝初代)、後醍醐天皇」が、
「比叡山」に逃れようとした際、「八瀬
の里」の「13戸」の「戸主」が、「弓
矢」を取り、「輿」を担ぎ、「天皇」を
「奉護」した事でも知られていて、その
後「八瀬童子」は、この功績により「地
租課役」の「永代免除」の「綸旨(天皇
の命令)」を授かるに至ったそうで、そ
れ以降は、「八瀬童子」の中でも特に選
ばれた者は「輿丁」となり、「朝廷」に
出仕するようになったそうで、「天皇」
や「上皇」の「行幸」や「葬送」等の際
に、「輿」を担ぐ事が「八瀬童子」の主
な仕事となったと言う経緯となった訳な
のだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-180足利尊氏1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-300第96代、後醍醐天皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-八瀬童子1.jpg)
ちなみに「明治時代」になると、「八瀬
童子」は、「葵祭」にも参加するように
なるに至り、「時代行列、路頭の儀」で
隊列を整える等のパフォーマンスをした
り、「輿丁」の「扮装」をして、「天皇」
に奉仕する「姿」となって、昔を忍ばせ
るに至ったのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-葵祭と八瀬童子22.jpg)
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その後「八瀬童子」達は、「1928年
(昭和3年)」には、「平安時代」から継
承する「八瀬童子」の「伝統」を、更に
「維持継承」していく事を目的として、
「一般師団法人、八瀬童子会」を設立す
るに至ったそうで、2023年現在におい
て、約110世帯によって組織され、大
量の「資料」等の収集保全に努めている
そうです。
ちなみに、「2010年(平成22年)」に
は、資料741点が「重要文化財」に指
定された事でも知られている訳になるそ
うです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/af.jpg)
さて、それでは、現在「八瀬童子会」に
よって、毎年10月に、「八瀬、秋元神
社」で執り行われている、「江戸時代中
期」の「八瀬童子達の史実」が由縁とな
っている「行事」とは何でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.久多(くた)花笠踊り
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-285クタの花笠踊り.jpg)
2.赦免地(しゃめんち)踊り
3.裸踊り
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-285裸踊り1.jpg)
4.松ヶ崎題目踊り
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「江戸時代中期」の頃から300年以上
も、継続してきた「八瀬の祭り」とは、
「赦免地(しゃめんち)踊り」と呼ばれ
ているものだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-260赦免地踊り.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊33.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊22.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-syokumenntiodori-344.jpg)
「鎌倉幕府」が滅亡した後、「足利氏」
が擁立する「北朝」と、「第96代、後
醍醐天皇」の「南朝」とが分裂すると言
う、いわゆる「南北朝時代」が半世紀以
上の長きに渡り継続し、やがて武家統治
の時代へ向かって行く過程の日本社会は
大混乱を極めるに至っていた訳になりま
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-300第96代、後醍醐天皇11.jpg)
「1336年」の「建武の乱」で「足利尊
氏」に破れた「後醍醐天皇」は、「都」
から「比叡山」に逃れようとした訳なの
ですが、その時に普段から「延暦寺」へ
と向う「僧侶」達の「道案内」や「警
護」を務めていた「八瀬童子」は、当然
の事ながら、「天皇」の「延暦寺」へ逃
避についても、非常に役立ったと言う事
になる訳なのです。
「後醍醐天皇」は、「八瀬童子」の働き
に対して大いに感謝し、「八瀬の地」を
「年貢以下公事課役」を免除するとの
「綸旨(りんじ:天皇の命令)」を下し
たと言う事で知られています。
この「天皇」が発令した「綸旨」の効力
は絶大なものだったそうで、その時に
「八瀬の里」に与えられた「赦免地」と
しての特権は、「室町時代」から「江戸
時代」へと、「時代」が移り変わっても
継続して認められ続けるに至ったそうで
す。
しかし、「江戸時代中期(1707年)」
の、「第5代将軍、徳川綱吉」の治世の
時に行われた「延暦寺の領地改め」の際
に、それまで「延暦寺」の「領地」に自
由に出入りをして「薪」や「柴」を刈っ
て生活をしていた「八瀬童子」達の出入
りが、大幅に制限されてしまう事に至っ
てしまったそうで、そもそも「山間地」
で「耕地」が少ない「八瀬童子」達にと
っては、いくら「租税の免除」があると
は言っても、「山」に入って「薪」や
「柴」が採れ無くなる事は、まさに「死
活問題」となってしまった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/徳川綱吉1-1.jpg)
こうして「困窮」に苦しむ事態に陥って
しまった「八瀬童子」達は、「京都奉行
所」を始め、「江戸寺社奉行」に対して
懸命に訴えるのですが、当時の「5代将
軍、徳川綱吉」の治世では、取り上げて
貰えなかったそうです。
その後「老中、秋元喬知(あきもとたか
とも)」が「京都に来る」と言う情報が
入ってきたので、「八瀬童子」達は、そ
の道中の「籠」に付きまとって、「直談
判」をするに至ると言う行動に出たそう
です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-老中秋元たかとも.jpg)
この時「老中、秋元」は、この熱心な懇
願を聞き入れる姿勢を見せるに至ったそ
うで、「八瀬の里」に立ち寄るまでし
て、その実情を確認するに至ったそうで
す。
視察した後に「老中」は、あらためて
「江戸、老中屋敷」まで、文書を持参す
るようにとの沙汰を出して「八瀬の里」
を後にしたそうです。
「八瀬童子」達は早速書類を作成し、
「江戸」に持参したそうですが、残念な
がら訴えが即決で認められる事は無く、
その後1年以上の月日が流れるに至っ
てしまったそうで、その間の「矢田童
子」達の生活困窮は、極致まで達してし
まった訳なのです。
しかし、その後、その「治世の悪評」が
高かった「五代将軍、徳川綱吉」が亡く
なり、「六代将軍、徳川家宣」と「新井
白石」との「治世」へと移り変わった
「1710年」になると、「徳川幕府」
は、「八瀬の地」の「禁裏御料地」以外
は全て「幕府の直轄地」とするとの沙汰
を出し、「八瀬の地」は、「年貢課役」を
一切免除される「赦免地」となるに至っ
たそうで、こうして苦しみ抜いた数年を
耐え忍んだ「八瀬童子」達は、それまで
で以上に「赦免地」としての特権が与え
られるに至ったと言う経緯になった訳な
のです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-300-Tokugawa_Ienobu6代将軍徳川家宣.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-300新井白石.jpg)
その時の「八瀬童子」達の喜びようは、
筆舌に尽くし難いレベルとなった訳であ
り、「訪京」の際の「道中」で、わざわ
ざ「八瀬の地」まで出向いてくれ、「赦
免」に対して尽力してくれたと言う
「恩」があり、「沙汰」を出してくれた
「老中、秋元喬知」に対して、「感謝の
意」を伝える為に、「秋元」の「江戸屋
敷」に訪問しに行ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-老中秋元たかとも.jpg)
その後「秋元」が亡くなると、「八瀬の
地」に「秋元神社」を創建し、「老中、
秋元但馬守喬知(たかとも)」公を「神
様」として祀り、以降毎年10月には、
「赦免地踊り」と呼ばれる「踊り」を
「奉納」する事が、「八瀬の里」の「恒
例行事」となったと言う経緯となった訳
なのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-秋元神社.jpg)
ちなみに、「八瀬赦免地踊」の主役は、
細密な透かし彫りを施した「切子灯籠」
と、「御所染めの刺繍」を施した「衣
装」をまとい、美しく化粧をした「灯籠
着(とろぎ)」と呼ばれる13歳から14
歳の少年達だそうです。
この主役達が「灯籠」を頭上にいただい
て、「秋元神社」へ「踊り」を奉納する
と言う内容になっているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-syokumenntiodori-344.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊22.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊33.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/10/300-赦免地踊1.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.赦免地踊り
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有する
事を明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
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し、腸内健康の源となります。)
これを毎日食すると腸内発酵が促進さ
れ、お通じが良くなり、腐敗から発酵
にチェンジするので、おならが臭くな
くなります。
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国産の食応援「和乃家(わのか)」は、
日本の食の安全保障として日本人の命
と健康を守る活動をしています。大豆
ミートをはじめ、食に関するいろいろ
な情報を発信していますので、よろし
かったら一度遊びにきてくださると嬉
しいです。「いいね」もしてくださる
と、情報更新のお知らせが届くように
なりますのでなお嬉しいです。
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