【食育クイズ:Vol.1436】「京都府」の「八瀬童子」おさらいクイズ! 「八瀬童子」が「老中秋元」に感謝し、秋元神社を創建して踊りを奉納する行事名は?

 

【食育クイズ:Vol.1436】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」の「八瀬の

 

里」に住む「八瀬童子」について、おさ

 

らいクイズ(Vol.639)にチャレンジ致

 

しましょう!

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

「八瀬童子(やせどうじ)」とは、古く

 

から「京都、八瀬の里」に住んでいる

 

「村落共同体」の人々の事を言います。

 

 

 

 

「平安時代」には、「比叡山、延暦寺」

 

の「雑役」や、「駕輿丁(かよちょう:

 

高貴な人物の載る輿(みこし)を担ぐ

 

役)」を務めた事を始め、「室町時代」以

 

降になると、「天皇」の臨時の「駕輿

 

丁」も務めた事で知られています。

 

 

 

ちなみに「伝説」によると、「平安時代

 

中期」頃に、「第66代、一条天皇」

 

は、当時「京の都」を脅かしていた「酒

 

呑童子」を征伐する為に、「源頼光」率

 

いる一軍を派遣した訳ですが、「頼光」

 

は警戒する「酒吞童子」に対して、身分

 

を偽り、酒を酌み交わす作戦に出て、大

 

量の酒を飲ませるに至ったそうです。

 

 

 

 

すると酒に酔った「酒呑童子」は、自ら

 

の身の上を話し出したそうで、大の酒好

 

きな為に家来から「酒呑童子」と呼ばれ

 

ている事を始め、かつては「比叡山」に

 

隣接する「比良山(平野山)」に住んで

 

いたが、「伝教大師、最澄」が「比叡

 

山、延暦寺」を創建した為に、そこには

 

居られなくなり、結果として「849

 

年」頃には「大江山」に住みついた事等

 

を話した事が伝説として語り継がれてい

 

るそうです。

 

 

 

この歴史的経緯を推察していくと、「平

 

安京遷都」を実行した「第50代、桓武

 

天皇」は、「皇室」を脅かすレベルにま

 

で巨大勢力となってしまった「奈良の仏

 

教勢力(南都六宗)」を切り離す目的が

 

あった訳であり、と同時に新しい「仏教

 

勢力構築」を目指し、「最澄」と「空

 

海」を重用するに至った訳で、こうして

 

「最澄」が創建した「比叡山、延暦寺」

 

は、今後「比叡山の地」を支配するの

 

は、「朝廷」が正当に認めた「天台教

 

団」であり、「酒呑童子」率いる「旧勢

 

力」は、「邪悪であり、怪物(鬼)」とし

 

て、追放したと言う事になるのだと推察

 

される訳なのです。

 

 

 

「最澄」は、もともと「比叡山」に住ん

 

でいた「酒呑童子」を使役していたとも

 

言われていて、「比叡山」を追放するに

 

あたり、「近江国、己高山(こだかみや

 

ま)」に土地を与えて移住させたとも言

 

われているのですが、それを「桓武天

 

皇」が許さず、結果として「鬼隠しの

 

里」とも言われる「大江山」に移住する

 

に至ったと言う経緯になる訳なのだそう

 

です。

 

 

 

以上のような「平安時代初期から中期」

 

にかけて起きた「平安京遷都」に伴う、

 

「朝廷」による「旧勢力の排斥」によ

 

り、「酒吞童子」は移住を重ね、最後は

 

「源頼光」によって征伐されてしまうに

 

至った訳なのですが、「比叡山」の西側

 

にあった「八瀬の里」には「酒呑童子」

 

の子孫と言われる人々が残り住み、「延

 

暦寺」の「寺役」等の仕事を担い続けた

 

と言う経緯となった訳なのだそうです。

 

 

また彼等は、その出で立ちが「結髪」を

 

せず、長い髪を垂らしたままと言う姿で

 

あった事から、「大童(おおきな子供)」

 

の様に見えたそうで、その「履物」も、

 

「草履」を履いていて、まるで「子供」

 

を彷彿とされる様な「姿」であった為、

 

「八瀬童子」と呼ばれるようになったと

 

言う経緯となった訳なのだそうです。

 

さて、本日は、この「八瀬童子」につい

 

て、おさらいクイズにチャレンジ致しま

 

しょう!

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

「白鳳時代」の「672年」に勃発した

 

「壬申の乱」の際、背中に矢を受けた

 

「大海人皇子」がこの地に「窯風呂」を

 

作り、傷を癒したと言う故事がある事か

 

ら、この地は「矢背」または「癒背」と

 

呼ばれるようになり、やがて転じて「八

 

瀬」となったと言う経緯がある事で知ら

 

れている「八瀬の里」では、その後、多

 

くの「窯風呂」が作られるに至ったそう

 

で、特に「遷都」後の「平安時代」以降

 

になると、主として「公家や貴族」達の

 

「湯治場」として知られるようになった

 

そうです。

 

 

 

 

と同時に、「桓武天皇」の意向により、

 

「最澄」が「比叡山、延暦寺」を創建す

 

ると、「八瀬童子」達は、「諸寺の雑役」

 

に従事すると共に、「天台座主」等「高

 

貴」な人達の「輿」を担ぐ役割も果たす

 

事が、仕事となっていったそうです。

 

 

 

また、「延暦寺」の「参詣者」から謝礼

 

を取り、担いで「比叡山」に登山する事

 

も、仕事としたそうで、やがて「八瀬童

 

子」達が結集して、「比叡山」の「末

 

寺」であった「青蓮院」を本所として、

 

「八瀬里座」を結成するに至ると言う経

 

緯となったそうで、これは、記録による

 

と「寛治6年(1092年)」と記載され

 

ていて、記録上確認できる「日本最古の

 

座」とも言われているそうです。

 

その後「日本社会」は、「平安時代」が

 

終焉し、「鎌倉時代」を経て「南北朝時

 

代」へと変遷する「動乱の時代」とな

 

り、「1336年」には、「足利尊氏」の

 

「内乱」によって「京」を追われた「第

 

96代(南朝初代)、後醍醐天皇」が、

 

「比叡山」に逃れようとした際、「八瀬

 

の里」の「13戸」の「戸主」が、「弓

 

矢」を取り、「輿」を担ぎ、「天皇」を

 

「奉護」した事でも知られていて、その

 

後「八瀬童子」は、この功績により「地

 

租課役」の「永代免除」の「綸旨(天皇

 

の命令)」を授かるに至ったそうで、そ

 

れ以降は、「八瀬童子」の中でも特に選

 

ばれた者は「輿丁」となり、「朝廷」に

 

出仕するようになったそうで、「天皇」

 

や「上皇」の「行幸」や「葬送」等の際

 

に、「輿」を担ぐ事が「八瀬童子」の主

 

な仕事となったと言う経緯となった訳な

 

のだそうです。

 

 

 

 

ちなみに「明治時代」になると、「八瀬

 

童子」は、「葵祭」にも参加するように

 

なるに至り、「時代行列、路頭の儀」で

 

隊列を整える等のパフォーマンスをした

 

り、「輿丁」の「扮装」をして、「天皇」

 

に奉仕する「姿」となって、昔を忍ばせ

 

るに至ったのだそうです。

 

 

 

 

その後「八瀬童子」達は、「1928年

 

(昭和3年)」には、「平安時代」から継

 

承する「八瀬童子」の「伝統」を、更に

 

「維持継承」していく事を目的として、

 

「一般師団法人、八瀬童子会」を設立す

 

るに至ったそうで、2023年現在におい

 

 て、約110世帯によって組織され、大

 

量の「資料」等の収集保全に努めている

 

そうです。

 

ちなみに、「2010年(平成22年)」に

 

は、資料741点が「重要文化財」に指

 

定された事でも知られている訳になるそ

 

うです。

 

 

さて、それでは、現在「八瀬童子会」に

 

よって、毎年10月に、「八瀬、秋元神

 

社」で執り行われている、「江戸時代中

 

期」の「八瀬童子達の史実」が由縁とな

 

っている「行事」とは何でしょうか?

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.久多(くた)花笠踊り

 

 

 

2.赦免地(しゃめんち)踊り

 

 

3.裸踊り

 

 

 

4.松ヶ崎題目踊り

 

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓   

 

【解説】

 

「江戸時代中期」の頃から300年以上

 

も、継続してきた「八瀬の祭り」とは、

 

「赦免地(しゃめんち)踊り」と呼ばれ

 

ているものだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

「鎌倉幕府」が滅亡した後、「足利氏」

 

が擁立する「北朝」と、「第96代、後

 

醍醐天皇」の「南朝」とが分裂すると言

 

う、いわゆる「南北朝時代」が半世紀以

 

上の長きに渡り継続し、やがて武家統治

 

の時代へ向かって行く過程の日本社会は

 

大混乱を極めるに至っていた訳になりま

 

す。

 

 

 

「1336年」の「建武の乱」で「足利尊

 

氏」に破れた「後醍醐天皇」は、「都」

 

から「比叡山」に逃れようとした訳なの

 

ですが、その時に普段から「延暦寺」へ

 

と向う「僧侶」達の「道案内」や「警

 

護」を務めていた「八瀬童子」は、当然

 

の事ながら、「天皇」の「延暦寺」へ逃

 

避についても、非常に役立ったと言う事

 

になる訳なのです。

 

「後醍醐天皇」は、「八瀬童子」の働き

 

に対して大いに感謝し、「八瀬の地」を

 

「年貢以下公事課役」を免除するとの

 

「綸旨(りんじ:天皇の命令)」を下し

 

たと言う事で知られています。

 

この「天皇」が発令した「綸旨」の効力

 

は絶大なものだったそうで、その時に

 

「八瀬の里」に与えられた「赦免地」と

 

しての特権は、「室町時代」から「江戸

 

時代」へと、「時代」が移り変わっても

 

継続して認められ続けるに至ったそうで

 

す。

 

しかし、「江戸時代中期(1707年)」

 

の、「第5代将軍、徳川綱吉」の治世の

 

時に行われた「延暦寺の領地改め」の際

 

に、それまで「延暦寺」の「領地」に自

 

由に出入りをして「薪」や「柴」を刈っ

 

て生活をしていた「八瀬童子」達の出入

 

りが、大幅に制限されてしまう事に至っ

 

てしまったそうで、そもそも「山間地」

 

で「耕地」が少ない「八瀬童子」達にと

 

っては、いくら「租税の免除」があると

 

は言っても、「山」に入って「薪」や

 

「柴」が採れ無くなる事は、まさに「死

 

活問題」となってしまった訳なのです。

 

 

こうして「困窮」に苦しむ事態に陥って

 

しまった「八瀬童子」達は、「京都奉行

 

所」を始め、「江戸寺社奉行」に対して

 

懸命に訴えるのですが、当時の「5代将

 

軍、徳川綱吉」の治世では、取り上げて

 

貰えなかったそうです。

 

その後「老中、秋元喬知(あきもとたか

 

とも)」が「京都に来る」と言う情報が

 

入ってきたので、「八瀬童子」達は、そ

 

の道中の「籠」に付きまとって、「直談

 

判」をするに至ると言う行動に出たそう

 

です。

 

 

この時「老中、秋元」は、この熱心な懇

 

願を聞き入れる姿勢を見せるに至ったそ

 

うで、「八瀬の里」に立ち寄るまでし

 

て、その実情を確認するに至ったそうで

 

す。

 

視察した後に「老中」は、あらためて

 

「江戸、老中屋敷」まで、文書を持参す

 

るようにとの沙汰を出して「八瀬の里」

 

を後にしたそうです。

 

「八瀬童子」達は早速書類を作成し、

 

「江戸」に持参したそうですが、残念な

 

がら訴えが即決で認められる事は無く、

 

その後1年以上の月日が流れるに至っ

 

てしまったそうで、その間の「矢田童

 

子」達の生活困窮は、極致まで達してし

 

まった訳なのです。

 

しかし、その後、その「治世の悪評」が

 

高かった「五代将軍、徳川綱吉」が亡く

 

なり、「六代将軍、徳川家宣」と「新井

 

白石」との「治世」へと移り変わった

 

「1710年」になると、「徳川幕府」

 

は、「八瀬の地」の「禁裏御料地」以外

 

は全て「幕府の直轄地」とするとの沙汰

 

を出し、「八瀬の地」は、「年貢課役」を

 

一切免除される「赦免地」となるに至っ

 

たそうで、こうして苦しみ抜いた数年を

 

耐え忍んだ「八瀬童子」達は、それまで

 

で以上に「赦免地」としての特権が与え

 

られるに至ったと言う経緯になった訳な

 

のです。

 

 

 

その時の「八瀬童子」達の喜びようは、

 

筆舌に尽くし難いレベルとなった訳であ

 

り、「訪京」の際の「道中」で、わざわ

 

ざ「八瀬の地」まで出向いてくれ、「赦

 

免」に対して尽力してくれたと言う

 

「恩」があり、「沙汰」を出してくれた

 

「老中、秋元喬知」に対して、「感謝の

 

意」を伝える為に、「秋元」の「江戸屋

 

敷」に訪問しに行ったそうです。

 

 

その後「秋元」が亡くなると、「八瀬の

 

地」に「秋元神社」を創建し、「老中、

 

秋元但馬守喬知(たかとも)」公を「神

 

様」として祀り、以降毎年10月には、

 

「赦免地踊り」と呼ばれる「踊り」を

 

「奉納」する事が、「八瀬の里」の「恒

 

例行事」となったと言う経緯となった訳

 

なのだそうです。

 

 

 

ちなみに、「八瀬赦免地踊」の主役は、

 

細密な透かし彫りを施した「切子灯籠」

 

と、「御所染めの刺繍」を施した「衣

 

装」をまとい、美しく化粧をした「灯籠

 

着(とろぎ)」と呼ばれる13歳から14

 

歳の少年達だそうです。

 

この主役達が「灯籠」を頭上にいただい

 

て、「秋元神社」へ「踊り」を奉納する

 

と言う内容になっているそうです。

 

 

 

 


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1.赦免地踊り

 

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