【食育クイズ:Vol.1484】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「藤原璋子
(待賢門院:第74代、天皇后)」にま
つわる「寺院」について、おさらいクイ
ズ(Vol.687)にチャレンジ致しましょ
う!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/藤原璋子青女の滝1.jpg)
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「平安時代後期」になると、「第72代、
白河天皇」が、僅か8歳だった「皇子」
に譲位して「第73代、堀河天皇」とし、
「幼帝」を補佐すると言う立ち位置で、
自らは「法皇」となり、「治天の君」と
して「院政」が執り行われるようになっ
たと言う経緯がある事で知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-200第72代、白河上皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-73代、堀河天皇73.jpg)
しかし「堀河天皇」が29歳で崩御して
しまった為に、「白河法皇」は、「孫」に
あたる「第74代、鳥羽天皇」を即位さ
せ、更に「院政」を維持すると言う経緯
となりました。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-400第74代、鳥羽天皇.jpg)
この「白河法皇」が、その「寵妃」とな
った「祇園女御」と共に、「幼少」の時
から「養女」として寵愛していたのが、
「7歳」の時に「父親」である「権大納
言、藤原公実」を失った「藤原璋子(し
ょうし)」だった事で知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-74代天皇后藤原璋子しょうし.jpg)
絶世の美女に成長した「璋子」は、
「1118年」に、「養父」であった「白
河法皇」を「代父」として、「法皇」の
「孫」であった「第74代、鳥羽天皇」
の「中宮」となるに至ったそうで、その
「翌年」には、「第一皇子、顕仁親王
(後の第75代、崇徳天皇)」を出産す
るに至り、その後も「第77代、後白河
天皇」を含め、総計で「5男2女」を
儲けるに至ったと言う経緯となった事で
知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-74代天皇后藤原璋子しょうし.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-400第74代、鳥羽天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-第75代、崇徳天皇.jpg)
さて、本日は、この「藤原璋子(待賢門
院)」にまつわる「寺院」について、お
さらいクイズにチャレンジ致しましょ
う!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/藤原璋子青女の滝1.jpg)
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「平安時代初期」の頃、「右大臣」だっ
た「清原夏野」は、「景勝地」であった
「平安京、右京、双ヶ丘」の地に、「山
荘」を営んだ事から、「双岡大臣」とも
呼ばれていたそうで、「830年~834年」
にかけて、「第52代、嵯峨上皇」や
「第53代、淳和天皇」が「行幸」して
水木を鑑賞していた事で知られているそ
うです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-右大臣藤原夏野1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-390嵯峨天皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-360第53代、淳和天皇22.jpg)
その後「夏野」が亡くなると、「858年」
に、「第55代、文徳天皇」の発願で
「寺院」となり、「天安寺」と号される
に至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-第55代、文徳天皇.jpg)
その後荒廃してしまっていたのを、「平
安時代末期」の「大治5年(1130年)」
に再興したのが、「第74代、天皇后、
藤原璋子(待賢門院)」だったそうで、
「天皇后」はその晩年をこの地で過ごし、
「寺院」の「北側」の内山として知られ
る、「五位山、中腹」に建立された「花
園西稜」に眠っている事で知られている
そうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-74代天皇后藤原璋子しょうし.jpg)
「絶代の美貌」を謳われ、「信仰心」も
深かった「第74代、天皇后」を慕い、
この「寺院」を訪れる人々も多く、その
中には「歌僧、西行法師」も憧れ、訪れ
て歌を詠んだ事でも知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-西行と待賢門院の道為らぬ恋.jpg)
問題:「平安時代末期」の「院政期」に、
「第74代、鳥羽天皇」の「天皇后」と
なった「藤原璋子(しょうし):待賢門
院」は、荒廃していた「天安寺」を再興
し、晩年はこの地で過ごした事で知られ
ています。
「天皇后」はこの「寺院」に、見事な
「浄土式庭園」を造営し、「夫」である
「鳥羽上皇」を伴って「落慶供養」を執
り行なうに至ったそうで、更に「巨石」
を用いて、「日本最古」の「人工の滝」
と言われ、現在、「特別名勝」に指定さ
れている「青女(せいじょ)の滝」も造
営した事で知られているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-青お女の滝-1.jpg)
さて、それでは、この時新しく命名され
た「寺院名」とは何でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.法金剛院
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-290法金剛院.jpg)
2.渉成園
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-290渉成園.jpg)
3.天龍寺
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-290天龍寺.jpg)
4.青連院
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-290青蓮院.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「平安時代初期」に、「右大臣、清原夏
野」が、「京都」の「名勝の地」として
知られる「双ヶ丘」に構えた「山荘」は、
その後「双丘寺」と呼ばれる「寺院」と
なり、「第52代、嵯峨天皇」や「第53
代、淳和天皇」の「行幸」をみ、その後
「第54代、仁明天皇」も「行幸」する
に至り、その際に、「寺」の背後にある
「内山」に登り、その「景勝」を愛でて、
「五位の位」を授けるに至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-54仁明天皇11.jpg)
それ以来、この「内山」は「五位山」と
称されるようになり、「寺」の「山号」
も「五位山」と称されるに至ったそうで
す。
しかしながら、その後「寺運」は衰え
「荒廃」してしまっていたのを、「平安
時代末期」の「1130年」に、「待賢門
院」がこの「寺」を「住まい」とすべく
再興し、その名称を「法金剛院」と改め
るに至ると言う経緯となった訳なのだそ
うです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-74代天皇后藤原璋子しょうし.jpg)
「待賢門院」が「法金剛院」再興に邁進
したのは、以下のような時代背景がある
事で知られています。
「夫」である「鳥羽上皇」が、「息子」
である「崇徳天皇」を退位させてまで、
「側妃」の息子を「第76代、近衛天皇」
として即位させた事の背景には、「待賢
門院」が「鳥羽天皇」の「中宮」となっ
た時に、実は、既に「養父」である「白
河法皇」の子を身籠っていて、その後
「第74代、鳥羽天皇」の「第一皇子」
として生まれ、「第75代、崇徳天皇」
となったと言う「噂」があり、「白河法
皇」が亡くなるや否や、それまでの均衡
状態が崩れ出すに至り、「鳥羽上皇」は、
「崇徳天皇」の事を、「息子」では無く
「弟」と見做すような態度を示すに至る
ようになり、更に「天皇后」に代わって
「側妃」の「藤原得子(美福門院)」を
寵愛し、その「得子」が産んだ「息子」
を「第76代、近衛天皇」とし、「息子」
がいるのに「弟」を「天皇」にしている
訳にはいかないとして、「崇徳天皇」を
「退位」させてしまうに至ると言う経緯
となった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-系図.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-第75代、崇徳天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-225 77代後白河法皇11.jpg)
例え「噂」が真実であり、「崇徳天皇」
が「鳥羽天皇」と「待賢門院」との「子」
では無かったとしても、「待賢門院」か
らすれば、自身のお腹を痛めて産んだ
「息子」である事に代わりは無い事から、
「崇徳天皇」を「ないがしろ」にした
「鳥羽上皇」を恨んで、「側妃、得子」
に対する「呪詛事件」が相次いで発覚す
るに至ったそうで、「鳥羽上皇」との
「不仲説」の「噂」は、決定的なものと
なってしまったと言う経緯となった訳な
のだそうです。
このような経緯から、「世間」からの
「悪しき風評」が、大きくなれば大きく
なるほど、「待賢門院」は、益々「法金
剛院」の再興に力を注ぐようになるに至
り、更に合わせて、自らの波乱な運命を
乗り越えて、安らけく「女人往生」する
場所となる事を望み、現世に「極楽往生」
の場所を再現する「浄土式庭園」の造営
に、「全力」で取り組むに至ると言う経
緯となった訳なのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-法金剛院池泉回遊式庭園庭園-300x277.jpg)
この「浄土式庭園」に築かれたのが、
「日本最古」の「人工の滝」として知ら
れる「青女(せいじょ)の滝」だそうで、
当初、当時を代表する「作庭家」として
知られる「林賢(りんけん)」が、巨大
な石を組んで高さ2m程の「人工物」と
は思えないレベルの、素晴らしい景観の
「滝」を作庭したそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-青女の滝◯.jpg)
しかしながら「女人往生」への願望が
益々強くなっていった「待賢門院」は、
更に「滝」の大型化を望むに至り、「仁
和寺」の「僧侶、徳大寺静意(とくだい
じじょうい)」に命じて、更に「5尺〜
6尺(1.5m〜1.8m)」ほど高いものに、
組み直させたと言う経緯となった訳なの
だそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-青お女の滝.jpg)
しかしながらその後の「乱世」による
「寺院」の荒廃と共に、この「浄土式庭
園」と「滝組」は、長らく埋もれてしま
うに至っていた訳なのですが、近年の
「昭和43年」になった時に、「境内」
の「発掘調査」が行なわれ、「上端部」
だけが顔を出していた「青女の滝」の
「石組」が、「完全な姿」で残存してい
る事が判明し、「昭和45年」には、「滝
石組」と、「滝」から「池」へとの流れ
る姿が再現されるに至り、それに合わせ
て「池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)
庭園」の「池」や、「植栽」の整備も進
み、こうして「平安時代末期」に隆盛し
た「浄土式庭園(宇治の平等院がその代
表格)」が復元されるに至ったと言う経
緯となった訳なのだそうで、現在では、
「青女の滝」の「下段」を「林賢」が組
み、「上段」を「静意」が積み上げたも
のとして、日本の「中世」の「歴史のロ
マン」を肉眼で見られるようになったと
言う経緯となった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-法金剛院青女の滝.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/420-青お女の滝.jpg)
ちなみに、「平安時代末期」に「治天の
君」となり「院政」を敷いた事で知られ
る「第72代、白河法皇」が「養父」と
なり、「第74代、鳥羽天皇」の「天皇
后」となった「藤原璋子(待賢門院)」
は、「第一皇子」の「崇徳天皇」を合わ
せて、「5男2女」を儲けたものの、
「白河法皇」が77歳で崩御すると、そ
れまでの「均衡」が崩れ出すに至り、
「璋子」の「息子」である「崇徳天皇」
が孤立し、夫の「鳥羽上皇」とは不仲に
なってしまうに至ったと言う事件は、そ
のままでは終了せず、その事件に端を発
して勃発した、「崇徳上皇」と「後白河
天皇」との勢力が、「朝廷」を二分する
と言う非常に大きな「皇位継承争いの事
件(保元の乱)」にまで発展するに至り、
その事がきっかけとなって、「平安貴族
の統治」の「時代」から「武家統治」の
「時代」へと「大変容」してしまうに至
ってしまうきっかけとなってしまった訳
なのであり、その時の「天皇」と「上皇」
との「両者」共に、「待賢門院」の「実
子」であったと言う事が、「歴史のアイ
ロニー」を感じる出来事だったと言える
訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/12/300-系図.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.法金剛院
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有する
事を明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
★高食物繊維(20g、腸内発酵を促進
し、腸内健康の源となります。)
これを毎日食すると腸内発酵が促進さ
れ、お通じが良くなり、腐敗から発酵
にチェンジするので、おならが臭くな
くなります。
デドックス効果で身体もスッキリ!!
每日の食で「医者いらず!薬いらず!」
低脂質!ダイエットに最適な高たんぱ
くプロテイン!
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https://6jika.thebase.in/items/25021970
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
国産の食応援「和乃家(わのか)」は、
日本の食の安全保障として日本人の命
と健康を守る活動をしています。大豆
ミートをはじめ、食に関するいろいろ
な情報を発信していますので、よろし
かったら一度遊びにきてくださると嬉
しいです。「いいね」もしてくださる
と、情報更新のお知らせが届くように
なりますのでなお嬉しいです。
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