【食育クイズ:Vol.1529】「京都府」の「三十三間堂」おさらいクイズ! 「後白河院」の勅願によって「三十三間堂」建立に造進した武将とは?

 

【食育クイズ:Vol.1529】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」の「三十三間

 

堂」にまつわる、「建立資材」を提供し

 

た「武将」について、おさらいクイズ

 

(Vol.731)にチャレンジ致しましょ

 

う!

 

 

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「第77代、後白河天皇」は、「第74

 

代、鳥羽上皇」と「天皇后、藤原璋子

 

(待賢門院)」との「第4皇子」として

 

生まれた人物として知られています。

 

 

 

 

「鳥羽上皇」は「第1皇子」であった

 

「第75代、崇徳天皇」を即位させ、

 

「院政」を行っていましたが、寵愛する

 

「藤原得子」に「皇子」が生まれると、

 

「1141年」に、「崇徳天皇」に譲位を

 

迫り、「得子」との「皇子」を「第76

 

代、近衛天皇」として即位させるに至っ

 

たそうです。

 

 

 

 

 

その後「1155年」に、「近衛天皇」が

 

崩御してしまった事から、「第77代、

 

後白河天皇」が、「鳥羽上皇」の「院政

 

下」の「1155年」に、「29歳」での

 

「即位」となったと言う経緯がありま

 

す。

 

 

 

また、「後白河天皇」の「第1皇子」

 

は、幼くして「後白河天皇」の父親であ

 

る「第74代、鳥羽法皇」に引き取ら

 

れ、「鳥羽法皇」が寵愛する「皇后、美

 

福門院(藤原得子)」に養育されていま

 

したが、「1158年」になると、「後白河

 

天皇」からの譲位を受けて「第78代、

 

二条天皇」として即位するに至ったそう

 

です。

 

 

「二条天皇」は、「譲位」後に「院政」

 

を行った「父親」の「後白河上皇」より

 

も、育ての親であった「美福門院」との

 

関係を重視した事によって、「後白河上

 

皇」とは「対立関係」に陥ってしまうと

 

言う経緯となり、「1159年」に勃発し

 

た「平治の乱」と称される内乱発生の原

 

因ともなってしまった訳なのです。

 

このような「二頭政治」の緊張関係の

 

中、「後白河院」は、「翌年」になると、

 

「平治の乱」で焼失してしまった「三条

 

殿」に代わる、新たな「院政」の拠点と

 

して、「京都、東山の地」に、「法住寺

 

(ほうじゅうじ)殿」と呼ばれる「離

 

宮」の造営に取り掛かったそうです。

 

 

 

その後「1162年」になると、「後白河

 

院」は、「二頭政治」体制に敗れ、「院

 

政」の停止と「二条天皇」による「親

 

政」が確立するに至ったそうで、その結

 

果「後白河院」は「信仰」にのめり込む

 

ようになったそうで、特に「熊野参詣」

 

はその生涯で34回にも及んだそうで、

 

その最中にお告げがあった事もあって、

 

「千手観音、信仰」に傾倒するに至った

 

そうです。

 

 

 

こうして「1164年」になると、「後白

 

河院」は、「法住寺殿」内に、「千体」の

 

「観音堂」である「蓮華王院(三十三間

 

堂)」を造営し、翌年には完成するに至

 

ったと言う経緯となった訳になるので

 

す。

 

 

 

さて、本日は、この「蓮華王院(三十三

 

間堂)」について、おさらいクイズにチ

 

ャレンジ致しましょう!

 

 

 

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問題:「平安時代末期」の「1165年」

 

に、「後白河院(上皇)」の勅願によっ

 

て、「離宮」内に創建された「三十三間

 

堂(蓮華王院本堂)」の建築資材を寄進

 

した事で知られている「武将」とは、誰

 

でしょうか?

 

 

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.平正盛

 

 

 

2.平忠盛

 

 

 

3.平清盛

 

 

 

4.平知盛

 

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓   

 

【解説】

 

「京都、東山」にある、「国宝」の「三

 

十三間堂(蓮華王院本堂)」は、現在

 

「妙法院」の「飛地境内」にあり、そも

 

そもは「平安時代末期」の頃に、「後白

 

河院」が自らの「離宮」内に創建した

 

「仏堂」の事を言い、ちなみに「蓮華王

 

院」の名称は、「御本尊」の「千手観

 

音」の別称である「蓮華王」に由来して

 

いるそうです。

 

 

 

 

念願だった「三十三間堂」を建立するに

 

当たり、「後白河院」は、その資材の調

 

達を、当時「最隆盛」を極めていた「平

 

清盛」に命じたそうで、創建当時は「五

 

重塔」等も建つ、壮大な「寺院」となっ

 

たそうなのですが、その後「鎌倉時代」

 

に勃発した「建長の大火(1249年)」

 

により、全て焼失してしまったそうで

 

す。

 

 

 

その後「1266年」に、「本堂(三十三

 

間堂)」だけが再建されたそうで、これ

 

によって、「京都市街地」に現存する

 

「木造建造物」としては、「大報恩寺、

 

本堂」に次いで「古い」ものであり、

 

「鎌倉時代」に建造されたものは、これ

 

ら「2棟」のみとされていると言う事に

 

なるのだそうです。

 

念願の「蓮華王院」の創建を果たした

 

「後白河院」は、その後長きに渡り「頭

 

痛」に悩まされるようになったそうで、

 

度々訪れる「熊野参詣」の折に、「頭

 

痛」が治癒するように祈願をしたそうで

 

す。

 

すると、夢に「熊野権現」が現れ、

 

~『洛陽にある、「因幡堂」の「薬師如

 

来」に祈りなさい。』~

 

とのお告げがあったので、早速「因幡

 

堂」に参詣すると、今度は「夢」に「僧

 

呂」が現れ、

 

~『上皇の前世は、「熊野」の「蓮華

 

坊」という「僧侶」で、仏道修行の功徳

 

によって「天皇」に生まれ変わったもの

 

である。しかし、その「蓮華坊」の「髑

 

髏(どくろ)」が「岩田川」の底に沈ん

 

でいて、その目穴から「柳」が生えてい

 

る。それが何らかのはずみで「髑髏」が

 

動く度に、上皇の頭が痛むのである』~

 

と告げたそうです。

 

早速「上皇」は、「岩田川(現在の富田

 

川)」を調べさせると、お告げの通りに

 

「髑髏」が発見されたので、造営した

 

「三十三間堂」の「千手観音」の中に、

 

その「髑髏」を納め、「柳」の木を

 

「梁」に使ったところ、上皇の頭痛はす

 

かっり完治するに至ったそうです。

 

以上のような「伝説」が、「三十三間

 

堂」には、伝えられていると言う訳にな

 

るのだそうです。

 

 

 

その後「安土桃山時代」になった時、

 

「天下人」となった「豊臣秀吉」が、こ

 

の地に「方広寺(京の大仏)」を造営し

 

た事によって、「三十三間堂」も、「方広

 

寺」の広大な「境内」の中に含まれるよ

 

うになったそうで、「江戸時代」に描か

 

れた「花洛一覧図」には、巨大な「方広

 

寺の大仏殿」と、その右側には「三十三

 

間堂」が描かれているそうです。

 

 

 

 

しかしながら、「1798年」に勃発した

 

「方広寺、大仏殿」の落雷による「火

 

災」によって、「秀吉」が建立した「大

 

仏殿」、「大仏」、「二王門」、「回廊」等が

 

焼失してしまうと言う「災害」が生じて

 

しまったのですが、奇跡的に「三十三間

 

堂」だけが類焼を免れて残ったと言う経

 

緯となった訳なのだそうです。

 

ちなみに、その当時の事を歌った、

 

~『京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼け

 

てな 三十三間堂が 焼け残った ありゃド

 

ンドンドン こりゃドンドンドン』~

 

と言う「わらべ歌」が伝えられているそ

 

うです。

 

 

↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓

3.平清盛

 

 

 

 

ABOUTこの記事をかいた人

食育&6次産業化推進センターは、食の国家的安全保障をめざし、日本人の命と健康を守るため、真の食の安心・安全とは何かというテーマを、食育活動や6次産業化推進活動をベースに追求する国家戦略プロフェッショナルの仕事をしています。