【食育クイズ:Vol.1529】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「三十三間
堂」にまつわる、「建立資材」を提供し
た「武将」について、おさらいクイズ
(Vol.731)にチャレンジ致しましょ
う!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/2番目に古い建徳物 三十三間堂.jpg)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
「第77代、後白河天皇」は、「第74
代、鳥羽上皇」と「天皇后、藤原璋子
(待賢門院)」との「第4皇子」として
生まれた人物として知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-225 77代後白河法皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-400第74代、鳥羽天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-74代鳥羽天皇皇后待賢門院法金剛院.jpg)
「鳥羽上皇」は「第1皇子」であった
「第75代、崇徳天皇」を即位させ、
「院政」を行っていましたが、寵愛する
「藤原得子」に「皇子」が生まれると、
「1141年」に、「崇徳天皇」に譲位を
迫り、「得子」との「皇子」を「第76
代、近衛天皇」として即位させるに至っ
たそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-崇徳天皇75代2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-74代、皇后美福門院1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-76近衛天皇-1.jpg)
その後「1155年」に、「近衛天皇」が
崩御してしまった事から、「第77代、
後白河天皇」が、「鳥羽上皇」の「院政
下」の「1155年」に、「29歳」での
「即位」となったと言う経緯がありま
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-225 77代後白河法皇11.jpg)
また、「後白河天皇」の「第1皇子」
は、幼くして「後白河天皇」の父親であ
る「第74代、鳥羽法皇」に引き取ら
れ、「鳥羽法皇」が寵愛する「皇后、美
福門院(藤原得子)」に養育されていま
したが、「1158年」になると、「後白河
天皇」からの譲位を受けて「第78代、
二条天皇」として即位するに至ったそう
です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-78代、二条天皇.jpg)
「二条天皇」は、「譲位」後に「院政」
を行った「父親」の「後白河上皇」より
も、育ての親であった「美福門院」との
関係を重視した事によって、「後白河上
皇」とは「対立関係」に陥ってしまうと
言う経緯となり、「1159年」に勃発し
た「平治の乱」と称される内乱発生の原
因ともなってしまった訳なのです。
このような「二頭政治」の緊張関係の
中、「後白河院」は、「翌年」になると、
「平治の乱」で焼失してしまった「三条
殿」に代わる、新たな「院政」の拠点と
して、「京都、東山の地」に、「法住寺
(ほうじゅうじ)殿」と呼ばれる「離
宮」の造営に取り掛かったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-法住寺殿.jpg)
その後「1162年」になると、「後白河
院」は、「二頭政治」体制に敗れ、「院
政」の停止と「二条天皇」による「親
政」が確立するに至ったそうで、その結
果「後白河院」は「信仰」にのめり込む
ようになったそうで、特に「熊野参詣」
はその生涯で34回にも及んだそうで、
その最中にお告げがあった事もあって、
「千手観音、信仰」に傾倒するに至った
そうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420三十三間堂1.jpg)
こうして「1164年」になると、「後白
河院」は、「法住寺殿」内に、「千体」の
「観音堂」である「蓮華王院(三十三間
堂)」を造営し、翌年には完成するに至
ったと言う経緯となった訳になるので
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420三十三間堂-down.jpg)
さて、本日は、この「蓮華王院(三十三
間堂)」について、おさらいクイズにチ
ャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/2番目に古い建徳物 三十三間堂.jpg)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
問題:「平安時代末期」の「1165年」
に、「後白河院(上皇)」の勅願によっ
て、「離宮」内に創建された「三十三間
堂(蓮華王院本堂)」の建築資材を寄進
した事で知られている「武将」とは、誰
でしょうか?
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420-三十三間堂1-down.jpg)
次のうちから選んで下さい。
1.平正盛
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-445平正盛.jpg)
2.平忠盛
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-445-平忠盛.jpg)
3.平清盛
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-445平清盛.jpg)
4.平知盛
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-445平知盛1.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「京都、東山」にある、「国宝」の「三
十三間堂(蓮華王院本堂)」は、現在
「妙法院」の「飛地境内」にあり、そも
そもは「平安時代末期」の頃に、「後白
河院」が自らの「離宮」内に創建した
「仏堂」の事を言い、ちなみに「蓮華王
院」の名称は、「御本尊」の「千手観
音」の別称である「蓮華王」に由来して
いるそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-三十三間堂マップ.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420三十三間堂-down.jpg)
念願だった「三十三間堂」を建立するに
当たり、「後白河院」は、その資材の調
達を、当時「最隆盛」を極めていた「平
清盛」に命じたそうで、創建当時は「五
重塔」等も建つ、壮大な「寺院」となっ
たそうなのですが、その後「鎌倉時代」
に勃発した「建長の大火(1249年)」
により、全て焼失してしまったそうで
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-445平清盛.jpg)
その後「1266年」に、「本堂(三十三
間堂)」だけが再建されたそうで、これ
によって、「京都市街地」に現存する
「木造建造物」としては、「大報恩寺、
本堂」に次いで「古い」ものであり、
「鎌倉時代」に建造されたものは、これ
ら「2棟」のみとされていると言う事に
なるのだそうです。
念願の「蓮華王院」の創建を果たした
「後白河院」は、その後長きに渡り「頭
痛」に悩まされるようになったそうで、
度々訪れる「熊野参詣」の折に、「頭
痛」が治癒するように祈願をしたそうで
す。
すると、夢に「熊野権現」が現れ、
~『洛陽にある、「因幡堂」の「薬師如
来」に祈りなさい。』~
とのお告げがあったので、早速「因幡
堂」に参詣すると、今度は「夢」に「僧
呂」が現れ、
~『上皇の前世は、「熊野」の「蓮華
坊」という「僧侶」で、仏道修行の功徳
によって「天皇」に生まれ変わったもの
である。しかし、その「蓮華坊」の「髑
髏(どくろ)」が「岩田川」の底に沈ん
でいて、その目穴から「柳」が生えてい
る。それが何らかのはずみで「髑髏」が
動く度に、上皇の頭が痛むのである』~
と告げたそうです。
早速「上皇」は、「岩田川(現在の富田
川)」を調べさせると、お告げの通りに
「髑髏」が発見されたので、造営した
「三十三間堂」の「千手観音」の中に、
その「髑髏」を納め、「柳」の木を
「梁」に使ったところ、上皇の頭痛はす
かっり完治するに至ったそうです。
以上のような「伝説」が、「三十三間
堂」には、伝えられていると言う訳にな
るのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420三十三間堂千手観音1.jpg)
その後「安土桃山時代」になった時、
「天下人」となった「豊臣秀吉」が、こ
の地に「方広寺(京の大仏)」を造営し
た事によって、「三十三間堂」も、「方広
寺」の広大な「境内」の中に含まれるよ
うになったそうで、「江戸時代」に描か
れた「花洛一覧図」には、巨大な「方広
寺の大仏殿」と、その右側には「三十三
間堂」が描かれているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/300-300豊臣秀吉1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420-方広寺と三十三間堂1.jpg)
しかしながら、「1798年」に勃発した
「方広寺、大仏殿」の落雷による「火
災」によって、「秀吉」が建立した「大
仏殿」、「大仏」、「二王門」、「回廊」等が
焼失してしまうと言う「災害」が生じて
しまったのですが、奇跡的に「三十三間
堂」だけが類焼を免れて残ったと言う経
緯となった訳なのだそうです。
ちなみに、その当時の事を歌った、
~『京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼け
てな 三十三間堂が 焼け残った ありゃド
ンドンドン こりゃドンドンドン』~
と言う「わらべ歌」が伝えられているそ
うです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2024/01/420-三十三間堂1-down.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
3.平清盛