【食育クイズ:Vol.1179】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「清閑寺、
茶室」にまつわる「幕末の史実」につ
いて、おさらいクイズ(Vol.383)
にチャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225清閑寺郭公亭1.jpg)
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「月照(げっしょう)上人」は、「江
戸幕末期」の「勤皇派」の僧侶として
知られている人物で、「清水寺、成就
院」の住職であった事から、毎年11
月の命日には、「清水寺」では法要が
営われているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-月照上人1-コピー.jpg)
「月照上人」は、「江戸時代後期」の
「1835年(天保6年)」に、「京都、
清水寺、成就院(じょうじゅいん)」
の住職となり、その後「尊王攘夷派」
の公家や活動家達と親交を持った事で、
当時の「江戸幕府」から「危険人物」
と見做されていた人物だったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-200成就院○.jpg)
その後「大老、井伊直弼」が誕生する
と、「開国」が推し進められると共に、
1858年から「攘夷派」を一掃する
「安政の大獄」が行なわれた事から、
「月照上人」は追われる身となり、
「薩摩藩」に海路で逃れたものの、最
終的には「錦江湾(きんこうわん:鹿
児島湾の事)」で入水自決して亡くな
ったと言われています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180井伊直弼2.jpg)
ちなみに、「月照」の弟である「信海
上人」も、兄の後を継いで「京都、成
就院」の住職となったそうですが、
「安政の大獄」で「江戸幕府」によっ
て捕縛されてしまい、「江戸の地」で
「獄中死」したと言われているそうで
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-200月照・信海2.jpg)
この両上人が住職を務めた「成就院」
がある「京都、清水寺」に隣接する
「清閑寺(せいかんじ)」は、「平安時
代」の頃には「清水寺」と並ぶほどの
「大寺院」だったそうで、「清水寺」
と同様に、「東山」山中に威容を誇っ
ていたそうです。
しかし、「室町時代」に勃発した「応
仁の乱」によって、「清水山」に布陣
した「西軍(山名宗全)」によって
「堂舎」等が破却されてしまうと言う
経緯があり、その後長きに渡り、荒廃
してしまったそうで、「江戸時代」に
なってから復興したと言う経緯があり、
「鐘楼」が再建されたのは「1730年
(亨保15年)」になってからだった
と言われているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225山名宗全1.jpg)
この「清閑寺、鐘楼」の上方にあった
「茶室、郭公亭(かっこうてい)」は、
「幕末期」の「安政5年(1858年)」、
隣接する「清水寺、成就院」の住職で
あった「月照上人」が「尊皇攘夷派」
の「○○」と言う人物と、安政の大獄
で追われる身となった事から、「都落
ちの密談」をした場所として知られて
いますが、残念なことに、「郭公亭」
は「老朽化」により、「1991年(平
成3年)」に、解体されてしまったそ
うで、現在ではその跡地に「石碑」が
建てられているだけとなっているそう
です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225清閑寺1-コピー.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-郭公亭跡地1-コピー.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-郭公亭跡地666-コピー.jpg)
さて、本日は、この「清閑寺、茶室、
郭公亭」にちなんだ「幕末期の逸話」
について、おさらいクイズにチャレン
ジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225清閑寺郭公亭1.jpg)
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問題:「江戸時代末期」の頃、「京都、
清閑寺」にある「茶室、郭公亭(かっ
こうてい)」で、「大老、井伊直弼」に
よる「安政の大獄」で、追われる身と
なった「勤王僧」として知られる「月
照上人」と共に、「都落ちの密談」を
交わした「尊王攘夷派」の人物とは誰
だったでしょうか?
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180井伊直弼2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-月照上人1-コピー.jpg)
次のうちから選んで下さい。
1.西郷隆盛
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180西郷隆盛.jpg)
2.坂本龍馬
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180坂本龍馬.jpg)
3.木戸孝允(桂小五郎)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180木戸孝允.jpg)
4.大久保利通
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-180大久保利通.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「勤皇派」の僧侶であり、「幕末期」
に「安政の大獄」を行った「江戸幕府」
から「危険人物」と見做されてしまう
ようになった「月照上人」が、住職を
営んでいた「清水寺、成就院」を抜け
出し、隣接する「清閑寺」の「茶室」
で、共に「都落ちをする密談」を交わ
した人物とは、当時特に親交が深かっ
たとされる「西郷隆盛」だったそうで、
「薩摩藩、藩主、島津斉彬(しまづな
りあきら)」が亡くなった時、「殉死」
しようとした「西郷」を押し留めたと
言う「逸話」がある事でも知られてい
るくらい、親交が深かったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-月照上人1-コピー.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-400西郷隆盛-コピー.jpg)
「攘夷」では無く、「開国」を推し進
めた「大老、井伊直弼」は、「攘夷派」
を一掃する「安政の大獄」を始めたと
言う経緯があり、その結果「月照上人」
は追われる身となり、「西郷」と共に
「郭公亭」での密談の末、「薩摩藩」
まで逃れていったそうですが、あいに
くと「薩摩藩」から保護を拒否されて
しまった為、「月照と西郷」の二人は
死を覚悟し、「錦江湾(きんこうわ
ん:鹿児島湾の事)」に入水し、自決
を図ったと言う経緯となったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225郭公亭跡地44-コピー.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-西郷と月照2.jpg)
ところが、奇しくも、「月照上人」だ
けが亡くなってしまい、「西郷」は奇
跡的に助かったと言う経緯となったそ
うです。
こうして、助かった「西郷」のその後
の大活躍を鑑みると、大いなる「歴史
の意図」的なものを、感じいる人も少
なくは無いのでしょうか?
ちなみに、「月照上人」の「墓」は、
住職として努めた「清水寺」と、「西
郷」の「菩提寺」である「南洲寺(鹿
児島市)」の両方にあるそうで、「清水
寺」では、「月照上人」の命日である
毎年11月16日に、「落葉忌」として
法要を執り行っているそうです。
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.西郷隆盛