【食育クイズ:Vol.1208】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「平安京、
市街地の変容」について、おさらいク
イズ(Vol.412)にチャレンジ致し
ましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225文人慶滋保胤.jpg)
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「京都、平安京」の「左京(東側)」
地域は、南北に「鴨川」が流れ、その
「背景(東側)」には、「東山三十六景」
の連邦が連なっている事で知られてい
ます。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225東山36景と鴨川1-コピー.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京右京.jpg)
このようにこの地域は、「風光明媚」
な地域であった事から、「寺院」や
「貴族の邸宅」が増えていったと言う
経緯があり、順調に発展していったと
言う経緯がありましたが、その一方で
「平安京、右京(西側)」の地は、特
に「京都盆地」の西南部分そのものが
「低地帯」であり、泥深い「沼や泉」
が多かった事から、「住居地」として
は不適切な地であった為、その開発も
「遷都」当時の計画通りにいかず、手
間取る一方だったそうで、例え「家屋
や道路」が整備されたとしても、次第
に荒廃してしまうケースが多かった事
もあって、「平安京遷都」後約200
年を経た「平安時代中期」以降になる
と、一部の「貴族の邸宅」等を残して、
次第に「耕地化」されていってしまっ
たと言う経緯になったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京左京.jpg)
こうして、順調に発展していった「平
安京、左京(東側)」は、「街路」の名
称や位置が、現在に至るまで「踏襲、
継続」されている訳なのですが、その
一方で「右京(西側)」の地域は、次
第に「耕地化」されていってしまうと
言う経緯となり、「平安京遷都」当時
に整備された「街路」についても、次
第に消滅していってしまい、その後も
再建されなかった所も数多くあったと
言われている訳になるのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京中央.jpg)
以上のような「平安京、市街地」の
「歴史的変容」の状況を記述した「文
献」も残っている訳であり、「平安京
遷都」後約100年を経た「871年」
の「太政官符」を紐解くと、「平安京、
右京(西側)」の「京都盆地」の「西
南隅の部分」についての記載があり、
その内容は、「計画通りの市街地」と
はせずに、「葬送地」と「放牧地」と
して定める、と言う内容のものだった
そうです。
更に、その後約100年を経た「平安
時代中期(982年)」頃に、「貴族」
であり「文人」であった「慶滋保胤
(よししげのやすたね)」が書いた
「○○」を紐解くと、
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225慶野保胤.jpg)
~『平安京「東・西」の「二京(右
京・左京)」を見ていくと、「西京(右
京:内裏に向かって左側)」は、「人家」
が追々と疎らになり、ほとんど幽墟に
近くなってしまっている。人は去って
も来る事が無いようだ。それらの家屋
は崩壊しても建造される事が無い状態
だ』~
との記述があり、当時の「右京(平安
京、西側)」が、「市街地」としては既
に衰微していた事が詳細に描かれてい
ると言う内容となっている事で知られ
ています。
しかしながら、その当時は、未だ「貴
族の邸宅」等も点在していたそうで、
完全に衰退していた訳では無かったと
言う事が判っていますが、その後更に
100年を経た「平安時代後期(1086
年)」の「扶桑略記」を紐解くと、「西
京(右京)」にある300余町の田の
「稲」を「検非違使」を遣わして刈り
取り、牛馬の飼料としたと言う旨の記
録があるそうで、当時の「右京、全面
積」である「608町」のうち、約半
分の部分が既に「耕地」となってしま
っていたと言う事が伺い知れる訳なの
です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-200平安京右京荒廃画像.jpg)
さて、本日は、この「平安京、市街地」
の変遷について、おさらいクイズにチ
ャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225文人慶滋保胤.jpg)
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「平安京遷都」から約200年以上を
経た「平安時代中期」以降になると、
「平安京」の市街地の様子は、「遷都
直後」の計画通りとはいかずに、大き
く変容していったと言われています。
「平安時代中期」に活躍した「貴族」
で、「漢詩文」に優れた「文人」であ
った「慶滋保胤(よししげのやすた
ね)」が、「平安京、右京(西側)」の
様子を叙述した「○○」と言う本を紐
解くと、その当時の「右京」が、「市
街地」として既に衰微し始めていた事
を伺い知る事が見て取れると言われて
います。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225慶野保胤.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京左京.jpg)
この当時の、「平安時代中期(982
年)」頃になった「平安京、右京(西
側)」は、勢いのある「貴族」の「邸
宅」等が、未だ点在してはいたそうで
すが、その後次第に「武家」が台頭し
ていくにつれ、「貴族」の力が衰えて
撤退していった言う経緯もあり、その
100年後の「平安時代後期(1086
年)」の記録によると、「市街地」とし
てはすっかり衰退してしまい、「耕地
化」していったと言う経緯になる訳な
のです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-200平安京右京荒廃画像.jpg)
さて、それでは、「平安時代中期(10
世紀後半以降)」頃、「平安京、右京
(西側)」が衰退してきた様子を叙述
した「慶滋保胤(よししげのやすた
ね)」の著書で、如何ともし難い「こ
の世の無常感」を伺い知る事ができ、
後世にも影響を与えたとされる「本」
の題名とは何でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.池亭記(ちていき)
2.今昔物語
3.作庭記
4.宇治拾遺物語
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「慶滋保胤(よししげのやすたね)」
が著した「随筆」として知られる「池
亭記(ちていき)」は、「平安時代中期」
頃の982年に成立したと言われてい
て、この当時の「京都」の風俗が良く
描かれている事から、貴重な資料とな
っていると言われている「著作物」と
して知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225慶野保胤.jpg)
「池亭記」は全12巻で、当時の「京
都」の世相を描いた「第1節」と、本
人が「隠遁生活」に入る様子を描いた
「第2節」との「2部構成」になって
いるそうで、この「第1節」に中に、
「京都」の「左京(東部)」には人が
密集して住んでいて発展する一方で、
「右京(西側)」は荒れ果てつつある
様子が描かれている事で知られている
そうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京左京.jpg)
ちなみに、「池亭記」と言う呼称は、
50歳を過ぎた「保胤」が、当時の
「京都、右京(西側)」にある「荒地」
となってしまっている地に、敢えて
「池」と「亭」を構え、「無常感、寂
寥感」を抱きながら、「念仏」と「読
書」に明け暮れると言う、極めて「閑
雅」な「晩年」を送るに至った心境を
吐露した内容であった事から、「池亭
記」と命名されたと言われているそう
です。
以上、「平安京の姿」の推移に伴った
かたちで、「平安時代(794年~
1185年)」の約400年の推移を紐解
くと、「第50代、桓武天皇」が成し
た「平安遷都」から約80年を経過し
ても、「平安京、南西部」の「隅一帯」
の地域は、その「水はけ」の悪さから、
「街路」も造成されず、「市街地」と
して完成していなかったと言う事から
始まり、やがて「平安建都」から約
200年近くを経た、「平安時代中期」
頃になると、「右京(西側)」の「市街
地」はすっかり衰亡してしまいつつあ
り、更に「平安遷都後」約300年を
経過した「平安時代後期」の頃になる
と、「右京(西側)」の約半分の土地が
「耕地」と化してしまったと言う経緯
となった事が伺い知れる訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京中央.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225平安京左京.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-200平安京右京荒廃画像.jpg)
ちなみに、「慶滋保胤」と言う人物は、
その著書である「池亭記」の「第2
節」に書かれているように、その晩年
は「諸行無常」の観念に基づいた、世
間に対して「無関心(諦念)的」な
「精神性」となり、敢えて荒廃してし
まった「京都、右京(西部)」の地に
小さな「庵」を建て、「隠遁生活」を
営みながら「執筆」に取り組むと言う
「人生」を選んだ事から、「隠棲文学
の祖」とも言われるようになったそう
で、その後に登場する「源通親(みな
もとのみちちか)」の「久我草堂記」
や、「鴨長明」の「方丈記」に多大な
る影響を与えた人物であったと言われ
ている訳になります。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225源通親.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225鴨長明1.jpg)
特に「鴨長明」が残した「記述」の中
には、「池亭記」の文中に見られる
「京都の世相」を始め、そして「長明」
自身も世間を離れ、小さな「庵」を建
てて「隠遁生活」に入ってしまう等の
記述が見られる事から、いかに「慶滋
保胤」が表した「諸行無常」感の影響
を受けたかが、伺い知れる訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/03/300-225鴨長明1.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.池亭記(ちていき)
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大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有するこ
とを明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
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★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
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と、情報更新のお知らせが届くように
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