【食育クイズ:Vol.1352】「京都府」の「建礼門院」おさらいクイズ! 「壇ノ浦の戦い」で生き残り、京都「寂光院」で晩年を過ごした「建礼門院」ゆかりの漬物とは?

 

【食育クイズ:Vol.1352】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」の「寂光院」

 

で余生を過ごしたとされる「平徳子(建

 

礼門院)」にまつわる「漬物」について、

 

おさらいクイズ(Vol.555)にチャレン

 

ジ致しましょう!

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

「平清盛」の「娘」で、「壇ノ浦の戦い」

 

において「平家の滅亡」と共に、幼くし

 

て命を失った「第81代、安徳天皇」の

 

「母親」でもある、「平徳子(たいらの

 

とくし:院号は建礼門院)」は、「壇ノ浦

 

の戦い」で「源義経軍」に破れた時、自

 

身の「母親」である「平時子(二位尼)」

 

が「安徳天皇」を抱いて海に「入水」し

 

たのを見て、自らも後を追って「入水」

 

したそうですが、「源氏の兵士」に助け

 

られて生き残り、「京都」へ送還された

 

後、滅亡した「平家一族」を弔う為に

 

「出家」し、「京都、大原」の山奥にあ

 

る「寂光院」でその余年を過ごしたと言

 

う事で知られています。

 

 

 

 

 

 

さて、本日は、「建礼門院」ゆかりの

 

「京都、大原」の「特産漬物」につい

 

て、おさらいクイズにチャレンジ致しま

 

しょう!

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

問題:「壇ノ浦の戦い」で生き残った

 

「建礼門院(平徳子)」は、「京都」に戻

 

された後、「京都、左京区、大原」にあ

 

る、「聖徳太子」の「開基」とされる

 

「尼寺、寂光院」に「隠遁」し、「平家

 

一門」の冥福を祈りつつ、その「余生」

 

を過ごしたと言われています。

 

 

 

 

 

 

さて、それでは、古くからこの「大原の

 

特産作物」を使用した食品で、「建礼門

 

院」ゆかりとされている「保存食(漬

 

物)」とは何でしょうか?

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.千枚漬け

 

 

2.すぐき

 

 

3.しば漬け

 

 

4.沢庵漬け

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓ 

 

【解説】

「平徳子(建礼門院)」は、「父親」の

 

「平清盛」が亡くなった後、すぐに「夫」

 

である「第80代、高倉上皇」を亡くし、

 

その後「源氏の兵」に追われ、「京都」

 

から脱出した後に、「壇ノ浦の戦い」に

 

おいて「母親」の「平時子」と、「息子」

 

の「第81代、安徳天皇」を亡くしてし

 

まいました。

 

 

 

 

 

また、それだけでは無く、数多くの「平

 

家一族」を亡くした事により、「平家滅

 

亡」となり、ほとんど1人生き残った

 

と言う経緯となってしまった訳なのです。

 

こうして「壇ノ浦の戦い」で破れた「平

 

家」の生き残りとて捕らえられた「徳子」

 

は、「京都の地」に還された後、「出家」

 

し、「比叡山」のふもとにある「洛中」

 

から遠い、人里離れた「大原の地」にあ

 

る、「聖徳太子」が創建したとされる

 

「尼寺、寂光院」に身を寄せ、ひっそり

 

と余生を過ごすに至ったそうです。

 

 

 

ちなみに、「大原、寂光院」に「徳子」

 

が入ったと言う知らせを聞いた、「徳子

 

の夫」であり、早世してしまった「第

 

80代、高倉天皇」の「父親」であった

 

「後白河院法皇」が、お忍びで「徳子」

 

を尋ねるに至ったそうです。

 

 

こうして「後白河法皇」と対面した「徳

 

子」は、泣きながら「平家滅亡」までの

 

顛末を振り返り、「壇ノ浦の戦い」で失

 

った息子の「安徳天皇」を始め、数多く

 

の「平家一族」の命を失うに至った経緯

 

について、打ち明け話をしたそうです。

 

この話を聞いた「後白河法皇」は、「あ

 

なたは目前に六道を見たのですね。」と

 

言って涙を流された、と言う「逸話」が

 

残っているそうです。

 

ちなみに「六道」とは、「仏教用語」で、

 

この世の全ての「衆生」が、「生前の業

 

因」によって、「生死」を繰り返す「六

 

つの迷いの世界」の事を言うそうで、具

 

体的には「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「阿

 

修羅」、「人間」、「天上」の「六つの世界」

 

の事を顕わす言葉だそうです。

 

 

こうして一時は「高倉天皇」の「皇后」

 

として君臨し、「次期天皇」となった

 

「安徳天皇」の「母親」でもあった「徳

 

子」が、その後「源氏の兵」に追われ、

 

「四国や九州」まで落ちながら、各地に

 

平家追討側の勢力が散在していた事から

 

「船」しか使用出来ず、「船上生活」で

 

の「飢えと渇き」に苦しみながら落ちて

 

いき、最終的には「母や息子」を始め、

 

「数多くの一族」の亡くなる様を見てき

 

たと言う事から、まさにこの世の「六道」

 

の全てを見たと言う、「後白河法皇」の

 

言葉も、頷ける訳なのです。

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

かつては「皇后」だった「徳子」を迎え

 

た、地元「大原」の人々は、少しでも

 

「御所」での高貴な日々を思い出しても

 

らおうとして、「大原の地」に古くから

 

保存食として作られてきた「紫の紫蘇

 

(しそ)の葉」の「漬け物」を献上する

 

に至ったそうです。

 

 

「紫色」は「皇室」の中でも「最高位の

 

身分」の人が身につける事が出来るとさ

 

れていた「色」だった事から、「建礼門

 

院」は、この「紫色の漬物」を見てたい

 

そう喜び、「紫葉(むらさきは)漬け」

 

と名付けたそうで、以降、「紫葉(しば)

 

漬け」と言う「名」が、定着していった

 

と言う事になった訳なのだそうです。

 

 

更にまた、「大原の地」は「山深い地」

 

であった事から、昔から、「柴」や「薪」

 

を頭に乗せて売り歩く「大原女(おはら

 

め)」が存在していた地であり、「柴の産

 

地」でもあった事から、質素な生活を営

 

む「徳子」の暮らしの中で、「寂光院」

 

の裏山で採れる「柴」を売った収入を生

 

活の支えともしていたと言う「逸話」が

 

あった事からも、「柴漬け」と表記され

 

るようにもなった訳なのだそうです。

 

 

「大原の地」は、「しば漬けの里」とも

 

言われ、800年以上経った現在でも

 

「年に1度」、「紫蘇の葉」で見渡す限

 

り大地が「赤紫色」に染まる時期がある

 

そうです。

 

その光景を見る人は、「大原の里」の

 

「人々」の昔から変わらぬ「優しさ」を

 

感じ、寂しい余生を送っていた「建礼門

 

院」の心に、「一筋の明るい火」を灯し

 

た瞬間を想い起こすそうです。

 

 

ちなみに、「京都御所」の「正門」であ

 

る「建礼門」は、現在でも「天皇陛下」

 

だけしか通ることが許されない門の代名

 

詞となっているそうです。

 

息子である「高倉天皇」が早世してしま

 

った時に、「建礼門院」と言う「院号」

 

を「徳子」に与えた「後白河法皇」の

 

「配慮」が伺い知れる訳なのです。

 

 

↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓

 

3.しば漬け

ABOUTこの記事をかいた人

食育&6次産業化推進センターは、食の国家的安全保障をめざし、日本人の命と健康を守るため、真の食の安心・安全とは何かというテーマを、食育活動や6次産業化推進活動をベースに追求する国家戦略プロフェッショナルの仕事をしています。