【食育クイズ:Vol.1352】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「寂光院」
で余生を過ごしたとされる「平徳子(建
礼門院)」にまつわる「漬物」について、
おさらいクイズ(Vol.555)にチャレン
ジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-225ー建礼門院柴漬け11.jpg)
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「平清盛」の「娘」で、「壇ノ浦の戦い」
において「平家の滅亡」と共に、幼くし
て命を失った「第81代、安徳天皇」の
「母親」でもある、「平徳子(たいらの
とくし:院号は建礼門院)」は、「壇ノ浦
の戦い」で「源義経軍」に破れた時、自
身の「母親」である「平時子(二位尼)」
が「安徳天皇」を抱いて海に「入水」し
たのを見て、自らも後を追って「入水」
したそうですが、「源氏の兵士」に助け
られて生き残り、「京都」へ送還された
後、滅亡した「平家一族」を弔う為に
「出家」し、「京都、大原」の山奥にあ
る「寂光院」でその余年を過ごしたと言
う事で知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-建礼門院2.jpg)
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-安徳天皇二位尼.jpg)
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さて、本日は、「建礼門院」ゆかりの
「京都、大原」の「特産漬物」につい
て、おさらいクイズにチャレンジ致しま
しょう!
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問題:「壇ノ浦の戦い」で生き残った
「建礼門院(平徳子)」は、「京都」に戻
された後、「京都、左京区、大原」にあ
る、「聖徳太子」の「開基」とされる
「尼寺、寂光院」に「隠遁」し、「平家
一門」の冥福を祈りつつ、その「余生」
を過ごしたと言われています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-平徳子12.jpg)
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さて、それでは、古くからこの「大原の
特産作物」を使用した食品で、「建礼門
院」ゆかりとされている「保存食(漬
物)」とは何でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.千枚漬け
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-260-千枚つけ.jpg)
2.すぐき
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-260-すぐき1.jpg)
3.しば漬け
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-260-柴漬け1.jpg)
4.沢庵漬け
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-260たくあん漬け12.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「平徳子(建礼門院)」は、「父親」の
「平清盛」が亡くなった後、すぐに「夫」
である「第80代、高倉上皇」を亡くし、
その後「源氏の兵」に追われ、「京都」
から脱出した後に、「壇ノ浦の戦い」に
おいて「母親」の「平時子」と、「息子」
の「第81代、安徳天皇」を亡くしてし
まいました。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-建礼門院2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-180平清盛-1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-80代高倉天皇-2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-安徳天皇二位尼.jpg)
また、それだけでは無く、数多くの「平
家一族」を亡くした事により、「平家滅
亡」となり、ほとんど1人生き残った
と言う経緯となってしまった訳なのです。
こうして「壇ノ浦の戦い」で破れた「平
家」の生き残りとて捕らえられた「徳子」
は、「京都の地」に還された後、「出家」
し、「比叡山」のふもとにある「洛中」
から遠い、人里離れた「大原の地」にあ
る、「聖徳太子」が創建したとされる
「尼寺、寂光院」に身を寄せ、ひっそり
と余生を過ごすに至ったそうです。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-寂光院1.jpg)
ちなみに、「大原、寂光院」に「徳子」
が入ったと言う知らせを聞いた、「徳子
の夫」であり、早世してしまった「第
80代、高倉天皇」の「父親」であった
「後白河院法皇」が、お忍びで「徳子」
を尋ねるに至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-225 77代後白河法皇11-2.jpg)
こうして「後白河法皇」と対面した「徳
子」は、泣きながら「平家滅亡」までの
顛末を振り返り、「壇ノ浦の戦い」で失
った息子の「安徳天皇」を始め、数多く
の「平家一族」の命を失うに至った経緯
について、打ち明け話をしたそうです。
この話を聞いた「後白河法皇」は、「あ
なたは目前に六道を見たのですね。」と
言って涙を流された、と言う「逸話」が
残っているそうです。
ちなみに「六道」とは、「仏教用語」で、
この世の全ての「衆生」が、「生前の業
因」によって、「生死」を繰り返す「六
つの迷いの世界」の事を言うそうで、具
体的には「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「阿
修羅」、「人間」、「天上」の「六つの世界」
の事を顕わす言葉だそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/364830.png)
こうして一時は「高倉天皇」の「皇后」
として君臨し、「次期天皇」となった
「安徳天皇」の「母親」でもあった「徳
子」が、その後「源氏の兵」に追われ、
「四国や九州」まで落ちながら、各地に
平家追討側の勢力が散在していた事から
「船」しか使用出来ず、「船上生活」で
の「飢えと渇き」に苦しみながら落ちて
いき、最終的には「母や息子」を始め、
「数多くの一族」の亡くなる様を見てき
たと言う事から、まさにこの世の「六道」
の全てを見たと言う、「後白河法皇」の
言葉も、頷ける訳なのです。
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かつては「皇后」だった「徳子」を迎え
た、地元「大原」の人々は、少しでも
「御所」での高貴な日々を思い出しても
らおうとして、「大原の地」に古くから
保存食として作られてきた「紫の紫蘇
(しそ)の葉」の「漬け物」を献上する
に至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-260-柴漬け1.jpg)
「紫色」は「皇室」の中でも「最高位の
身分」の人が身につける事が出来るとさ
れていた「色」だった事から、「建礼門
院」は、この「紫色の漬物」を見てたい
そう喜び、「紫葉(むらさきは)漬け」
と名付けたそうで、以降、「紫葉(しば)
漬け」と言う「名」が、定着していった
と言う事になった訳なのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/ダウンロード-1-1.jpg)
更にまた、「大原の地」は「山深い地」
であった事から、昔から、「柴」や「薪」
を頭に乗せて売り歩く「大原女(おはら
め)」が存在していた地であり、「柴の産
地」でもあった事から、質素な生活を営
む「徳子」の暮らしの中で、「寂光院」
の裏山で採れる「柴」を売った収入を生
活の支えともしていたと言う「逸話」が
あった事からも、「柴漬け」と表記され
るようにもなった訳なのだそうです。
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「大原の地」は、「しば漬けの里」とも
言われ、800年以上経った現在でも
「年に1度」、「紫蘇の葉」で見渡す限
り大地が「赤紫色」に染まる時期がある
そうです。
その光景を見る人は、「大原の里」の
「人々」の昔から変わらぬ「優しさ」を
感じ、寂しい余生を送っていた「建礼門
院」の心に、「一筋の明るい火」を灯し
た瞬間を想い起こすそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-紫蘇畑2.jpg)
ちなみに、「京都御所」の「正門」であ
る「建礼門」は、現在でも「天皇陛下」
だけしか通ることが許されない門の代名
詞となっているそうです。
息子である「高倉天皇」が早世してしま
った時に、「建礼門院」と言う「院号」
を「徳子」に与えた「後白河法皇」の
「配慮」が伺い知れる訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/07/300-kennreimonn.jpg)
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3.しば漬け