【食育クイズ:Vol.1480】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「後水尾上
皇」にまつわる「幡枝(はたえだ)離宮」
について、おさらいクイズ(Vol.683)
にチャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/幡枝離宮円通寺1.jpg)
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「江戸時代初期」の頃、「江戸幕府」に
よる徹底的な「朝廷勢力の制限」政策に
対して、「抗(あらが)う」ように、「雅
(みやび:あるがままにの意)」に生き
抜き、「85歳」と言う長寿を全うした
「第108代、後水尾天皇」は、「慶長
16年(1611年)」に「即位」しますが、
「即位」するや否や、「朝廷」の行動を
統制しようとする「徳川幕府」による
「禁中並公家諸法度」が公布され、以降、
「朝廷」の「行動全般」が「京都所司代」
を通じて「幕府」の管理下に置かれるよ
うになるに至、「摂政・関白」による決
定事項も、「幕府」の承諾を得なければ
施行出来ないと言う「体制」へと、変化
を余儀なくされるに至った時代の「天皇」
となった訳なのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-400第108代、後水尾天皇.jpg)
こうして「上皇」や「公卿」は、「朝廷」
による「政策決定過程」から排除される
に至った訳であり、「徳川幕府」の方針
に忠実に従う「朝廷」の「運営」が行わ
れる体制が構築されるに至ったと言う事
になった訳なのです。
更に「大御所」となった「徳川家康」は、
「孫娘」である「和子」の「入内」を画
策し、紆余曲折を経て、「1620年」に
入内するに至った事から、「1626年
(寛永3年)」になると、「徳川秀忠」と
「徳川家光」の両名が「上洛」し、「後
水尾天皇」による「二条城御幸」を果た
し、「拝謁」するに至ると言う経緯と
なり、「皇室」と「徳川家」との「縁戚
関係」が確認された訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-300徳川家康1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-東福門院徳川和子.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-180-徳川秀忠.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-180徳川家光-2.jpg)
このような権力構造を構築した「徳川幕
府」は、翌年の「1627年」には、「朝
廷」が「僧侶」に「紫色の法衣や袈裟を
与え、報酬を得る」事を「幕府」が禁止
すると言う「紫衣事件」が起き、更に、
「3代将軍、徳川家光」の乳母である
「春日局」が、「無位無冠」の身であり
ながら「朝廷」に参内する等と言った、
「幕府勢力」による「天皇の権威」を失
墜させる事件が頻発するに至った事から、
憤慨した「後水尾天皇」は、「幕府」へ
の通告をしないまま、無理矢理「皇女」
の「第109代、明正天皇」に譲位し、
自らは「上皇」となって「院政」を敷く
に至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-春日の局.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-370109代、明正天皇.jpg)
当然に「徳川幕府」は、この「院政」を
認めなかった訳なのですが、「寛永11
年(1634年)」に、「第3代将軍、徳
川家光」の「上洛」をきっかけに、「後
水尾上皇」の「皇后」であり、「第2代
将軍、徳川秀忠」の「娘」であった「和
子(東福門院)」が、「上皇」の方針に理
解を示し、擁護した事も「後押し」とな
り、最終的には認められると言う経緯と
なったそうで、その後も「上皇(法皇)」
と「幕府」との確執は続いたものの、
「後水尾上皇」の「院政」は、「第110
代、後光明天皇」、「第111代、後西
(ごさい)天皇」、「第112代、霊元天
皇」まで、4代に渡る「天皇」の「後見
人」として、「院政」を継続するに至っ
たと言う経緯となった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-東福門院徳川和子.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-370109代、明正天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-370110代後光明天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-第111代、後西天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-323第112代、霊元天皇1.jpg)
「上皇」となった「後水尾天皇」は、自
らの「離宮(住まい)」の土地を探し求
め、「比叡山が美しく見える土地」を
10年以上かけて探し求めた結果、やっ
と辿り着いたのが、「洛北、岩倉」の地
だったそうです。
こうして「1639年(寛永16年)」に、
「岩倉の地」に造営されたのが「幡枝離
宮(はたえだりきゅう)」であり、「上皇」
は、「比叡山」が良く見えるように、「枯
山水庭園」を自らが設計し、「平庭」に
置かれた「40数個」の「石」は全て
「高さ」を抑えた「低いもの」で揃えら
れ、「生垣」も「直線的」に刈り込まれ
ている構成となった「庭園」は、「比叡
山」を借景とした、見事な「枯山水庭園」
が造営されるに至ったと言う事になった
訳なのだそうです。
この「幡枝離宮」は、その後「上皇」の
「第1皇女」であった「梅宮(文智女
王)」が「出家」し、「1641年」に「京
都、修学院」の地に「円照寺」を創建し
た事で、度々「愛娘」に会う為に「修学
院の地」を訪れる事になった「上皇」が、
「幡枝離宮」以上に「比叡山」が眺望で
きるこの地に惚れ込んでしまうに至り、
更に「修学院離宮」を造営する事となり、
「近衛家」に「下賜」される事になった
訳なのだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-文智女王(梅宮)108代後水尾天皇長女.jpg)
こうして「上皇」が「修学院離宮」を
「造営」するに当たっては、「皇后」で
ある「東福門院」が、「実家」である
「徳川家」への支援を仰いだ事もあり、
「徳川幕府」から「造営費用」が捻出さ
れるに至ったそうで、「上皇」はその後
「12年の歳月」をかけて、設計はもと
より、草木や土石の1つ1つの配置ま
でもこだわりながら、自らのイメージで
設計し、「1656年」に、広大な「山荘
(離宮)」として知られる「修学院離宮
(しゅうがくいんりきゅう)」が完成さ
れるに至ったと言う経緯となった訳なの
だそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/420修学院離宮2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290-修学院離宮.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-300-比叡山.jpg)
ちなみに「修学院離宮」造営にまつわり、
「愛娘」の「梅宮」が創建した「円照寺」
は、「大和(奈良)」に移され、それまで
の「上皇」の住まいだった「幡枝離宮」
は、「近衛家」に下賜され、その後
「1678年」に、「寺院」となるに至る
と言う経緯となった訳なのだそうです。
さて、本日は、この「寺院」となった
「幡枝(はたえだ)離宮」について、お
さらいクイズにチャレンジ致しましょ
う!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/幡枝離宮円通寺1.jpg)
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「江戸時代初期」の頃、「朝廷」の行動
を制限しよう目論んだ「徳川家康」は、
「孫娘」の「和子」を無理矢理に「第
108代、後水尾天皇」の「皇后」とし、
「皇室」と「徳川家」との縁戚を結ぶに
至った事で知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-300徳川家康1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-東福門院徳川和子.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-400第108代、後水尾天皇.jpg)
しかしながら「徳川幕府」による度重な
る「天皇の権威失墜」の事件が相次いだ
事によって、「後水尾天皇」は「皇女」
に譲位して「上皇」となり、「院政」を
始めるに至り、「京都、岩倉」の地に
「幡枝(はたえだ)御所」を造営し、移
り住むに至った事で知られています。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-370109代、明正天皇.jpg)
問題:「比叡山」を「借景」とした「枯
山水の庭園」がある事で知られ、「第
108代、後水尾上皇」の「幡枝御所」
が起源となり、「近衛家」に下賜された
後「寺院」となった事で知られている、
その「寺院名」とは、何でしょうか?
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-300-比叡山.jpg)
次のうちから選んで下さい。
1.霊願寺
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290霊願寺1.jpg)
2.正伝寺
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290正伝寺.jpg)
3.閑臥庵(かんがあん)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290閑臥庵.jpg)
4.円通寺
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290円通寺.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「京都、岩倉」にある「円通寺」は、
「延宝6年(1678年)」に、「第112
代、霊元天皇」の乳母であった「圓光院
文英尼」が「開基」となって、「臨済宗、
妙心寺派」の「禅寺」に改め、「妙心寺、
10世、景川宗隆」を「勧請開山」とし
て「開山」されるに至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-円通寺1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290円通寺.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-323第112代、霊元天皇1.jpg)
その際、そもそもこの「寺院」は、(寛
永16年(1639年)」に、「上皇」とな
った「第108代、後水尾上皇」が、「離
宮(住まい)」として造営した「幡枝
(はたえだ)離宮」だった事もあり、
「後水尾上皇」は、「寺院」の「開山」
に対して「圓通」の「勅額」を「下賜」
するに至ったそうで、その後「1680年
(延宝8年)」には、「皇室」の「勅願
所」にもなるに至ったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-400第108代、後水尾天皇.jpg)
「円通寺」の「枯山水式庭園」は、「上
皇」自らの設計だった事で知られ、現在
でも造営当時のままで保存されていて、
「国の名勝」にも指定されているそうで
す。
「苔」を主体に、「比叡山」が見えるよ
うに低い「刈込みと石」を配していて、
特に「大小40余りの庭石」は、「上皇」
自らが配したと言われているそうです。
この低い「刈込みと立木」の背後に望む
「比叡山」が「借景」となっている姿は、
「客殿」の奥から見ると、見事な「額縁
庭園」となっている事で知られている訳
になるそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-290円通寺.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/300-300円通寺2.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/420-円通寺比叡山借景1-300x271.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/420-円通寺3-300x265.jpg)
ちなみに、「京都市」では、この「円通
寺庭園」の借景を守る為、急速に進む
「都市開発」によって、「高層マンショ
ン建築」による「借景破壊」を懸念し、
「借景保護眺望条例(正式名称は京都市
眺望景観創生条例)」を制定したそうで、
周辺区域では「高さ」だけでなく、「屋
根の形式」等にも制限をかけるに至った
そうです。
「東京都、小池都知事」が邁進する「ソ
ーラパネル義務化政策」を始め、「都立
葛西臨海公園」の「樹木1400本伐採
計画」や、「明治神宮外苑」の「3000
本伐採」と比して、「京都」と「東京」
との「知事」を始め、「府民、都民」も
含めて、その「文化や歴史」に対する
「考え方」を始め、「見識、良識」の
「相違」が、如実に顕れた事例であると
思われる訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/11/420-jyumokubassaihanntaiunndou-300x213.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
4.円通寺
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有する
事を明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
★高食物繊維(20g、腸内発酵を促進
し、腸内健康の源となります。)
これを毎日食すると腸内発酵が促進さ
れ、お通じが良くなり、腐敗から発酵
にチェンジするので、おならが臭くな
くなります。
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国産の食応援「和乃家(わのか)」は、
日本の食の安全保障として日本人の命
と健康を守る活動をしています。大豆
ミートをはじめ、食に関するいろいろ
な情報を発信していますので、よろし
かったら一度遊びにきてくださると嬉
しいです。「いいね」もしてくださる
と、情報更新のお知らせが届くように
なりますのでなお嬉しいです。
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