【食育クイズ:Vol.1132】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都の御所」にまつ
わる「歴史」について、おさらいクイ
ズ(Vol.336)にチャレンジ致しま
しょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200京都御所2.jpg)
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問題:「京都御所」について、以下の
4つの説明文の中に、一つだけ間違っ
た記述があります。
さて、それはどれでしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.「鎌倉時代末期」の1331年(元
弘元年)、「第96代、後醍醐天皇」が、
「里内裏(さとだいり:天皇の住む在
所の事)」である「土御門東洞院殿
(つちみかどひがしのとういんどの)」
で即位した時から、この場所が「皇居
(京都御所)」となった。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-300後醍醐天皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200つちみかどひがしのとういん.jpg)
2.「江戸時代末期」の1855年(安
政2年)、「江戸幕府」は前年に焼失し
てしまった内裏を再建しているが、こ
れが現在の「京都御所」の原形となっ
ている。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225京都御所.jpg)
3.「承明門」から「紫宸殿(ししん
でん)」に向かうと、「紫宸殿」の向か
って右手に「桜」が、左手に「橘」が
植えられている。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225紫宸殿66.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225ぼかし 左近の桜.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225右近橘紫宸殿.jpg)
4.「御所」外周の「正面の門(南門)」
が「建礼門」であり、「裏門(北門)」
にあたるのが「翔平門」である。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200建礼門.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200翔平もん1.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「天皇」の住居を「里内裏(さとだい
り)」と言い、「平安京」の時代から
「土御門東洞院殿(つちみかどひがし
のとういんどの)」は存在していたそ
うで、現在の「京都御所」のベースと
なっているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200つちみかどひがしのとういん.jpg)
「後醍醐天皇」が即位したのは、「文
保2年(1318年)」の31歳の時で、
30代での即位は、「第71代、後三条
天皇」が1068年に、36歳で即位し
て以来、実に250年ぶりであったそ
うで、1331年ではありません。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-300後醍醐天皇11.jpg)
設問の「1331年」は、「後醍醐天皇」
による「鎌倉幕府、倒幕」の挙兵が起
きた「元弘の変」があった時であり、
この戦いで「倒幕」に失敗した「天皇」
は「幕府軍」に捕らえられ、謀反人と
なってしまった事から、急遽代わりの
「天皇」として、「光厳天皇(こうご
んてんのう)」がこの「里内裏、土御
門東洞院殿」の場所で、「即位(記録
状は北朝の初代天皇として)」した年
であると言う経緯になる訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-光厳天皇北朝初代天皇.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/420-南北朝時代の天皇の系図.001-1024x576-1-300x169.jpg)
ちなみに、「鎌倉時代末期」から「室
町時代初期」に勃発した、いわゆる
「南北朝時代」の主役である「後醍醐
天皇」は、「大覚寺統」から出た「天
皇」で、古代的な「天皇」による「親
政」を復活としようとして、「鎌倉幕
府、討幕」を計画した事で知られてい
る訳であり、「後醍醐天皇」による
「鎌倉幕府、倒幕」への歴史は、まず
1324年に、「倒幕」を企ていると言
う嫌疑をかけられてしまい、「鎌倉幕
府」の設置した「京都」の守護機関で
ある「六波羅探題」によって、「後醍
醐天皇」の側近であった公家「日野資
朝」が処分される「正中の変」が起き
た事から始まります。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-日野資朝.jpg)
「後醍醐天皇」は、その時には何とか
無罪となったのですが、その後も引き
続き「倒幕」を計画しました。
しかしながら、1331年に、再び側近
だった公家の「吉田定房」に密告され
てしまい、身辺に危険が迫ってしまっ
た「後醍醐天皇」は、急遽「三種の神
器」を持ち出し、「京都」を脱出しま
す。
その後「京都、笠置山」に籠城した
「後醍醐天皇」は、「倒幕」を目指し
て「挙兵する(元弘の変)」と言う事
態になったと言う経緯があり、その結
果、この戦いで幕府軍に敗れてしまっ
た「後醍醐天皇」は捕らえられ、その
後「承久の乱(1221年)」の先例に
従って謀反人とされ、翌年(1332年)
に「隠岐島」に流されてしまうと言う
経緯となってしまいました。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/350-元弘の変-300x282.jpg)
従って、この「元弘の変」によって、
謀反人となった「後醍醐天皇」に代わ
って、「光厳天皇」の「(初代北朝の天
皇として)即位」となったと言う経緯
になった訳なのです。
しかしながら、「後醍醐天皇」の皇子
である「護良親王(もりよししんの
う)」を始め、河内の「楠木正成」、播
磨の「赤松則村」等の「倒幕勢力」の
各地での活動は衰えていなかった事か
ら、「後醍醐天皇」は、流された翌年
の「1333年(元弘3年)」になると、
「名和長年」を頼って「隠岐島」から
脱出し、「伯耆船上山(現鳥取県東伯
郡琴浦町内)」で、再び挙兵するに至
ると言う経緯になります。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-護良親王後醍醐天皇の息子.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-180楠木正成.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-203赤松則村11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-名和長年.jpg)
「鎌倉幕府」は、その挙兵を鎮圧する
ために、「足利高氏(尊氏)」を「京都」
に派遣しますが、逆に「尊氏」は「幕
府」に寝返って「後醍醐天皇」に味方
をすると言う事態となり、「尊氏」は
「六波羅探題」を攻略し、「後醍醐天
皇」軍と争えないようにしてしまいま
した。
更に、その「京都」の動きに呼応する
かたちで、「東国」の地では「新田義
貞」が挙兵し、「鎌倉」を陥落させる
と言う事態が生じ、結果として「北条
氏滅亡」となったと言う経緯になった
訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/420-鎌倉幕府滅亡1333年.jpg)
こうして、「名和、楠、新田、足利」
各氏が「後醍醐天皇」に協力する形と
なって、1333年、「鎌倉幕府滅亡」
が実現し、「政権」が「鎌倉の武家政
権」から「京都の王朝政権」に帰還す
る事となり、「後醍醐天皇」の望んだ
通りの、「天皇」による政権である
「建武の親政」が執り行われると言う
事態になった訳なのです。
しかしながら、「建武の新政」を執り
行った「後醍醐天皇」の政治は、種々
の矛盾と失政に加えて、「公・武(公
家と武士)」との間で不協和音を生じ
てしまうような政策を行ってしまった
ため、大失敗となり、皮肉にも「後醍
醐天皇」の倒幕に貢献した「足利尊氏」
の反乱により、崩壊してしまうと言う
経緯となり、「後醍醐天皇」は「吉野」
に移り「南朝」を名乗り、その一方で
「尊氏」は、「持明院統」から「光明
天皇」を擁立し「北朝」を立てると言
う「南北朝」による内乱となってしま
ったと言う経緯となった訳なのです。
こうして、「鎌倉幕府滅亡」から「室
町幕府政権」が確定するまでの内乱の
時代を「南北朝時代」と言い、具体的
にはその主役であった「後醍醐天皇」
が亡くなるまでが、内乱の時代とされ
ている訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-180足利尊氏1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/420-南北朝時代の天皇の系図.001-1024x576-1-300x169.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-南北朝時代11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/後醍醐天皇と足利尊氏-300x181.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.元弘元年(1331年)、「第96代、
後醍醐天皇」が、「里内裏」である
「土御門東洞院殿」で即位した時から、
この場所が「皇居(京都御所)」とな
った。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200つちみかどひがしのとういん.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225紫宸殿右近の橘左近の桜1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-225○ぼかし無し 左近の桜.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200右近の橘999.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-京都御所6門.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200建礼門.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/12/300-200翔平もん1.jpg)
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ミートをはじめ、食に関するいろいろ
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しいです。「いいね」もしてくださる
と、情報更新のお知らせが届くように
なりますのでなお嬉しいです。
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