【食育クイズ:Vol.1172】「京都府」の「斎院(斎王)制度」おさらいクイズ! 「平安時代初期」の頃「斎院制度」を創設した天皇は誰?

 

【食育クイズ:Vol.1172】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」の「賀茂神

 

社」にまつわる「斎院(斎王)制度」

 

について、おさらいクイズ(Vol.

376)にチャレンジ致しましょう!

 

 

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「斎院(さいいん)」とは、「平安時代」

 

から「鎌倉時代」にかけて、「賀茂御

 

祖神社(下鴨神社)」と「賀茂別雷神

 

社(上賀茂神社)」の「両賀茂神社」

 

に奉仕した「皇女(王女)」の事を言

 

い、「伊勢神宮」の「斎宮」と併せて

 

「斎王(斎皇女)」と言います。

 

 

 

 

「斎院」は、「賀茂神社」では、「大祭

 

祀」として、「賀茂祭(現在の葵祭)」

 

を執り行ってきたと言う経緯がありま

 

すが、「平安時代」において言えば、

 

「皇女」が「斎王」として「奉仕」し

 

ていた時代だった事もあり、「斎王」

 

が「賀茂祭」そのものを主宰していた

 

と言われている訳になります。

 

 

 

 

しかしながら、「平安時代末期」の頃

 

になると、華やかな宮廷文化の一角を

 

担っていた「斎院」も、「源平の争乱」

 

等が頻発した事によって、しばしば途

 

絶するようになってしまったと言う経

 

緯となり、「後鳥羽上皇」の「皇女」

 

であった「第35代、斎院」の「礼子

 

内親王」が退下した後に勃発した、

 

「承久の乱(1221年)」の混乱と、

 

「皇室」が資金不足に陥ってしまった

 

事から、「斎院制度」は事実上廃絶と

 

なってしまったと言う経緯となり、そ

 

の後現代に至るまで復活することは無

 

かったと言う事になるのです。

 

 

ちなみに、「賀茂祭(葵祭)」そのもの

 

は、日本の統治機構が「貴族社会」か

 

ら「武士社会」と変遷した後でも、継

 

続され続けたと言う経緯があり、その

 

後現在までの間において、「室町時代」、

 

「江戸時代」、「世界大戦後」と三度に

 

渡り、「内乱や戦争」等の理由により、

 

「断絶」した時代があったものの、世

 

界大戦敗戦後の「1953年(昭和28

 

年)」に「葵祭」は復活を果たし、現

 

在にまで継続され続けている訳なので

 

す。

 

 

こうして、この時の復活を契機として、

 

1956年からの「葵祭」は、主役とな

 

る「斎王」を、「一般市民」から選ば

 

れた未婚の女性を「斎王代」と称して

 

執り行なわれるようになったと言う経

 

緯になる訳なのです。

 

さて、本日は、「平安時代」の「斎院

 

制度」について、おさらいクイズにチ

 

ャレンジ致しましょう!

 

 

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問題:「京都、賀茂社(上賀茂神社と

 

下鴨神社)」では、「平安京遷都」以来、

 

「○○天皇」によって、「斎王(斎院)

 

制度」が設けられたと言われています。

 

さて、それでは、この制度を創設した

 

「天皇」とは誰でしょうか?

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.桓武天皇(第50代)

 

 

2.平城天皇(第51代)

 

 

3.嵯峨天皇(第52代)

 

 

4.淳和天皇(第53代)

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓ 

 

【解説】

 

「賀茂神社」の「斎院制度」の起源は、

 

「平安時代初期」において、「第51

 

代、平城上皇」が「弟」である「第

 

52代、嵯峨天皇」と対立して、遷都

 

したばかりの「平安京」から、「奈良、

 

平城京」へ「都」を戻そうとした事件

 

が勃発した時に、「嵯峨天皇」は、「王

 

城鎮守の神」として設置された「賀茂

 

神社」の「大神様」に対し、「我が方

 

(嵯峨天皇)に利あらば、自らの「皇

 

女」を「阿礼少女(あれおとめ)」と

 

して、「賀茂神社」の「神迎えの儀式」

 

に奉仕する女性として捧げると言う

 

「祈願」をかけたそうです。

 

 

 

その後「弘仁元年(810年)」のいわ

 

ゆる「薬子の変」で「嵯峨天皇」が勝

 

利した事によって、「嵯峨天皇」は、

 

「第52代天皇」として安定統治にな

 

ったそうで、「薬子(くすこ)の変」

 

勃発の時に「賀茂神社」に祈願した

 

「誓い」通りに、娘の「有智子内親王」

 

を「斎王」として、「賀茂神社」に奉

 

仕させたそうで、それが「賀茂斎院」

 

の始まりであると言われている訳にな

 

るそうです。

 

 

 

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ちなみに「平安時代中期」になる頃に

 

は、「斎院」は、しばしば宮中文化の

 

中心として、歌人や貴族達が出入りす

 

る風雅な社交場の一つと発展していっ

 

たそうです。

 

「初代、斎院」である、「嵯峨天皇」

 

の息女の「有智子内親王」は、著名な

 

「女流漢詩人」だったと言われ、その

 

後にも、「枕草子」や「紫式部日記」

 

にもその名が登場する「大斎院」とも

 

称された「選子内親王」を始め、数多

 

くの「歌合」を主催した「六条斎院」

 

と称された「禖子内親王」や、「新古

 

今和歌集」を代表する「歌人」である

 

「式子内親王」等々…、歴代の「斎院」

 

は「文雅」で名を馳せた人物が多い事

 

で知られている訳になるのです。

 

また、「斎院文化」の一つとして、「源

 

氏物語」誕生の「逸話」が残されてい

 

るそうで、その内容とは、「大斎院」

 

と称された「選子内親王」が、「何か

 

珍しい物語」をと所望された事をきっ

 

かけとして、当時の「中宮」を通して

 

命じられた「紫式部」が書いたとの

 

「伝承」がある事で知られているそう

 

です。

 

 

また、「枕草子」の中にも、「選子内親

 

王」と「中宮、定子」との「文」の

 

「贈答」の場面が見受けられる等々…、

 

こうして、華やかなりし「平安時代」

 

において、「宮中」と「斎院」との文

 

化交流の豊かさが、数多く伺い知れる

 

訳なのです。

 

↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓

 

3.嵯峨天皇(第52代)

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食育&6次産業化推進センターは、食の国家的安全保障をめざし、日本人の命と健康を守るため、真の食の安心・安全とは何かというテーマを、食育活動や6次産業化推進活動をベースに追求する国家戦略プロフェッショナルの仕事をしています。