【食育クイズ:Vol.1172】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「賀茂神
社」にまつわる「斎院(斎王)制度」
について、おさらいクイズ(Vol.
376)にチャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-225斎院制度1.jpg)
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「斎院(さいいん)」とは、「平安時代」
から「鎌倉時代」にかけて、「賀茂御
祖神社(下鴨神社)」と「賀茂別雷神
社(上賀茂神社)」の「両賀茂神社」
に奉仕した「皇女(王女)」の事を言
い、「伊勢神宮」の「斎宮」と併せて
「斎王(斎皇女)」と言います。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-225上賀茂神社-1.jpg)
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「斎院」は、「賀茂神社」では、「大祭
祀」として、「賀茂祭(現在の葵祭)」
を執り行ってきたと言う経緯がありま
すが、「平安時代」において言えば、
「皇女」が「斎王」として「奉仕」し
ていた時代だった事もあり、「斎王」
が「賀茂祭」そのものを主宰していた
と言われている訳になります。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-200葵祭-2-1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-斎王代222.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-207葵祭斎王代11.jpg)
しかしながら、「平安時代末期」の頃
になると、華やかな宮廷文化の一角を
担っていた「斎院」も、「源平の争乱」
等が頻発した事によって、しばしば途
絶するようになってしまったと言う経
緯となり、「後鳥羽上皇」の「皇女」
であった「第35代、斎院」の「礼子
内親王」が退下した後に勃発した、
「承久の乱(1221年)」の混乱と、
「皇室」が資金不足に陥ってしまった
事から、「斎院制度」は事実上廃絶と
なってしまったと言う経緯となり、そ
の後現代に至るまで復活することは無
かったと言う事になるのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-300後鳥羽天皇11-300x300.jpg)
ちなみに、「賀茂祭(葵祭)」そのもの
は、日本の統治機構が「貴族社会」か
ら「武士社会」と変遷した後でも、継
続され続けたと言う経緯があり、その
後現在までの間において、「室町時代」、
「江戸時代」、「世界大戦後」と三度に
渡り、「内乱や戦争」等の理由により、
「断絶」した時代があったものの、世
界大戦敗戦後の「1953年(昭和28
年)」に「葵祭」は復活を果たし、現
在にまで継続され続けている訳なので
す。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-200葵祭-2-1.jpg)
こうして、この時の復活を契機として、
1956年からの「葵祭」は、主役とな
る「斎王」を、「一般市民」から選ば
れた未婚の女性を「斎王代」と称して
執り行なわれるようになったと言う経
緯になる訳なのです。
さて、本日は、「平安時代」の「斎院
制度」について、おさらいクイズにチ
ャレンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-225斎院制度1.jpg)
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問題:「京都、賀茂社(上賀茂神社と
下鴨神社)」では、「平安京遷都」以来、
「○○天皇」によって、「斎王(斎院)
制度」が設けられたと言われています。
さて、それでは、この制度を創設した
「天皇」とは誰でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.桓武天皇(第50代)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-390桓武天皇1.jpg)
2.平城天皇(第51代)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-360平城天皇11.jpg)
3.嵯峨天皇(第52代)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-390嵯峨天皇11.jpg)
4.淳和天皇(第53代)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-360淳和天皇22.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「賀茂神社」の「斎院制度」の起源は、
「平安時代初期」において、「第51
代、平城上皇」が「弟」である「第
52代、嵯峨天皇」と対立して、遷都
したばかりの「平安京」から、「奈良、
平城京」へ「都」を戻そうとした事件
が勃発した時に、「嵯峨天皇」は、「王
城鎮守の神」として設置された「賀茂
神社」の「大神様」に対し、「我が方
(嵯峨天皇)に利あらば、自らの「皇
女」を「阿礼少女(あれおとめ)」と
して、「賀茂神社」の「神迎えの儀式」
に奉仕する女性として捧げると言う
「祈願」をかけたそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-360平城天皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-390嵯峨天皇11.jpg)
その後「弘仁元年(810年)」のいわ
ゆる「薬子の変」で「嵯峨天皇」が勝
利した事によって、「嵯峨天皇」は、
「第52代天皇」として安定統治にな
ったそうで、「薬子(くすこ)の変」
勃発の時に「賀茂神社」に祈願した
「誓い」通りに、娘の「有智子内親王」
を「斎王」として、「賀茂神社」に奉
仕させたそうで、それが「賀茂斎院」
の始まりであると言われている訳にな
るそうです。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-賀茂斎院跡地1.jpg)
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ちなみに「平安時代中期」になる頃に
は、「斎院」は、しばしば宮中文化の
中心として、歌人や貴族達が出入りす
る風雅な社交場の一つと発展していっ
たそうです。
「初代、斎院」である、「嵯峨天皇」
の息女の「有智子内親王」は、著名な
「女流漢詩人」だったと言われ、その
後にも、「枕草子」や「紫式部日記」
にもその名が登場する「大斎院」とも
称された「選子内親王」を始め、数多
くの「歌合」を主催した「六条斎院」
と称された「禖子内親王」や、「新古
今和歌集」を代表する「歌人」である
「式子内親王」等々…、歴代の「斎院」
は「文雅」で名を馳せた人物が多い事
で知られている訳になるのです。
また、「斎院文化」の一つとして、「源
氏物語」誕生の「逸話」が残されてい
るそうで、その内容とは、「大斎院」
と称された「選子内親王」が、「何か
珍しい物語」をと所望された事をきっ
かけとして、当時の「中宮」を通して
命じられた「紫式部」が書いたとの
「伝承」がある事で知られているそう
です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/01/300-245-源氏物語2.jpg)
また、「枕草子」の中にも、「選子内親
王」と「中宮、定子」との「文」の
「贈答」の場面が見受けられる等々…、
こうして、華やかなりし「平安時代」
において、「宮中」と「斎院」との文
化交流の豊かさが、数多く伺い知れる
訳なのです。
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
3.嵯峨天皇(第52代)