【食育クイズ:Vol.1196】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「江戸時
代」の「上皇」による「院政」につい
て、おさらいクイズ(Vol.400)に
チャレンジ致しましょう!
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「1600年」の「関ケ原の戦い」に勝
利した「徳川家康」は、「征夷大将軍」
と言う、新たな権力の座を手に入れ、
「1603年」、「江戸」に「徳川幕府」
を開きました。
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「徳川家」による長期的な「政権統治」
を期した「家康」は、早々に「将軍職」
を「2代、秀忠」や「3代、家光」に
譲り、自らは「大御所」となって、
「朝廷」の行動を制限する政策を打ち
出し、「1613年」には、「公家衆法度」
や「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し
て規制をかけ、更に「1615年」にな
ると、「大坂の陣」において「豊臣家」
を滅亡させると同時に、その規制の更
なる強化政策を打ち出し、「禁中並公
家諸法度」を公布し、これによって、
以後「朝廷」の行動全般については、
「京都所司代」を通じる事が義務付け
られ、「朝廷」の行動の全てが「徳川
幕府」の管理下に置かれる事になった
そうです。
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225徳川家光.jpg)
こうして「朝廷」の行動を運営する為
の、「摂政、関白」等の「公卿」によ
る「朝議」の決定事項の全てが、「徳
川幕府」の承諾が得られなければ「施
行」出来ないと言う体制となり、「朝
廷」による「王政」そのものが、あら
ゆる「政策決定過程」から完全に排除
されると言う、かつて無いくらいの大
きな変容を余儀なくされたと言う事に
なった訳なのであり、この「禁中並公
家諸法度」の施行によって、「天皇」、
「上皇」、「公卿」は、「徳川幕府」の
方針に忠実に従う事しか出来なくなっ
てしまったと言う経緯になる訳なので
す。
さて、本日は、この「江戸時代初期」
の頃、「徳川幕府」による「朝廷」へ
の「圧迫政策」を不満に思った「天皇」
について、おさらいクイズにチャレン
ジ致しましょう!
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問題:「江戸幕府」を開いた「徳川家
康」は、「徳川幕府」による長期的な
絶対的統治を期し、「大御所」となっ
て、朝廷の行動を徹底的に制限する政
策を実行したと言う経緯があります。
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さて、それでは、その「幕府」による
「朝廷圧迫政策」を不満として、早々
に譲位し、隠棲の地として「京都、修
学院離宮」となる「山荘」を造営して
「上皇」となり、その後「4代の天皇」
に渡り「院政」を敷いた「天皇(上
皇)」とは誰でしょうか?
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次のうちから選んで下さい。
1.第107代、後陽成天皇
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-370107代後陽成天皇.jpg)
2.第108代、後水尾天皇
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-370108代 後水尾天皇.jpg)
3.第109代、明正天皇
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-370109代、明正天皇.jpg)
4.第110代、後光明天皇
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-370110代後光明天皇.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「第108代、後水尾天皇」は、「第
107代、後陽成天皇」の「第三皇子」
として生まれと言う経緯があり、皇位
継承順としては三番目だった訳なので
すが、「家康」の孫娘であった「徳川
和子」を「後水尾天皇」の中宮にし、
「天皇家」と「外戚関係」を結びたい
と思う「家康」の意向が大きく影響し、
「家康」や「後陽成上皇」の死後、
「2代将軍、秀忠」の時(1620年)
になってから、「徳川和子」は「後水
尾天皇」の元へ「入内」したと言う経
緯になったそうで、その後「1625年」
には「第一皇子」が誕生したそうです。
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その後、外戚となった「徳川家」によ
る「横暴」とも言えるような「朝廷」
への関与は益々強くなっていったそう
で、「1627年」には、「第3代将軍、
家光」の乳母である「春日局(かすが
のつぼね)」が、「無位無冠」の「臣民
の身分」でありながら「朝廷」に無理
やりに参内すると言う、極めて傍若無
人で、且つ「天皇の権威」を失墜させ
るような事件まで発生してしまったそ
うです(金杯事件)。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-春日の局.jpg)
このような「徳川家」による度重なる
「不敬」な行為に耐えかねた「後水尾
天皇」は、ついに「1629年」、「御法
度」を破り、「幕府」への通告を全く
しないまま、亡くなってしまった「第
一皇子」に替わり、未だ5歳であった
「次女」の「興子内親王」を一時的に
「女帝」として「第109代、明正天
皇」として即位させ、自らはその後見
人として「上皇」となり、「院政」を
敷くと言う事態に至ったと言う経緯に
なってしまったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-370109代、明正天皇.jpg)
こうして「上皇」となった「後水尾天
皇」は、以後、自身の58歳の時の
「皇子」である「第112代、霊元天
皇」までの、「4代」に渡る「天皇」
の後見人として「院政」を執り行った
と言う事になった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-346霊元天皇.jpg)
「家康」に始まり、「2代将軍、秀忠」
の時までは、「朝廷」の行動の抑制強
化策を画策していた「徳川幕府」は、
「第3代、家光」の頃になると、「後
水尾天皇」の「中宮」となった「徳川
和子(東福門院)」による「天皇擁護」
の姿勢もあり、次第に「後水尾上皇」
の「院政」と協調するようになってい
ったそうで、「院政4代目」となった
「第112代、霊元天皇」の頃になる
と、「幼帝」を後見する「上皇」の主
導的役割に対して理解を示し、「役料」
まで支給するようになったと言われて
いるそうです。
ちなみに「修学院離宮」とは、「比叡
山」山麓の「修学院」の地に造営され
た、「後水尾天皇」が「上皇」となっ
た時にその「離宮」として、「江戸幕
府」が造営した別荘の事を言います。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-225修学院離宮1.jpg)
この「離宮」の中にある「中御茶屋」
は、「後水尾上皇」の「皇女」の為に
造られた「御所」だったそうですが、
「書院造」の「客殿」は、「1677年」
に造営された「東福門院(後水尾天皇
の中宮、徳川2代将軍秀忠の娘、徳川
和子の事)」の「御所」を、移築した
ものだったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-200徳川和子の御所を移築したもの22.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-当福音和子.jpg)
こうして、「徳川幕府」成立直後にお
いて、徹底的に制圧された「天皇の権
威」は、比較的短い期間で修正される
傾向となったと言う経緯となり、その
後「悠久の時の流れ」と共に、「勤王
思想」の勢力が強くなっていき、やが
て「尊王攘夷派」の勢力によるクーデ
ターとなり、「徳川幕府」から「明治
政府」とへと変容していったと言う経
緯になっていった訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2023/02/300-200大政奉還.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
2.第108代、後水尾天皇