【食育クイズ:Vol.1775】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「幕末期」
にまつわる新設された「京都守護職」の
「本陣」について、おさらいクイズ
(Vol.975)にチャレンジ致しましょ
う!
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「幕末期」になると、「京都の地」に
は、「諸国」から「尊王攘夷派」の「過
激志士」達が集結するようになり、それ
と共に「天誅」と称する「要人の暗殺」
や、「商家」への「押し込み強盗」等と
言った「騒乱」が横行した事によって、
「京都の治安」が非常に悪化してしまっ
た訳なのだそうです。
「江戸幕府」は、そもそも「京都」の
「治安維持」の為に、「京都所司代」や
「京都町奉行」を置いていた訳なのです
が、「過激派」による「狼藉」が激増し
てしまった事から、それだけでは防ぎき
れないと判断するに至り、「洛中」の
「治安維持」を始め、「御所」や「二条
城」の警備等を担う役割を強化する事を
決断し、新たに「1862年」に、「京都
守護職」を新設するに至ったと言う経緯
となった訳なのだそうです。
さて、本日は、「京都守護職」の「本
陣」となった「寺院」について、おさら
いクイズにチャレンジ致しましょう!
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「幕末期」の「1853年」に勃発した
「黒船来航」によって、日本が「鎖国
中」である事を理由に、もはやこれ以上
列強諸国からの凄まじい侵略脅威から逃
れる事が出来ないレベルの「国難」であ
る事が明白となった「日本」は、その対
策に追われる中、「第12代将軍、徳川
家慶(いえよし)」は、心労で薨去する
に至ってしまった訳なのだそうです。
この国難に対応する為にも、次期将軍を
早急に立てなければならなかった「江戸
幕府」は、生前の「家慶」が儲けた14
名の息子の中でたった一人だけ生き残っ
ていた「家定」が、病弱であり、且つ人
前に出る事が出来ない性格であった為
に、「一橋家」の「徳川慶喜」を推挙し
ようとまで言っていた「家慶」が急死し
てしまった為に、「老中首座」の「阿部
正弘」達は、それまでのしきたりに則っ
たかたちで、無理矢理に「29歳」の
「家定」を「第13代、将軍」にしたと
言う経緯となった訳なのだそうです。
こうして「将軍」になった「家定」は、
益々「健康」が優れなくなり、ほとんど
「政治の表舞台」に出る事が無かった訳
なのだそうで、世継ぎも生まれなかった
事から、最後には「薩摩藩主、島津斉
彬」の養女であった「篤姫」を御台所と
して迎える至った訳なのですが、それで
も「子供」を儲ける事無く、「輿入れ」
から僅か1年9ヶ月後の「1858年」
に、「従兄弟」の「家茂」を「養子」に
迎えると言うかたちで「14代、将軍」
にすると宣言した後に、敢え無く崩御し
てしまうに至った訳なのだそうです。
この間、江戸幕府の執政は「老中首座」
「阿部正弘」が死去するまでの「1857
年」まで、その後は「老中首座」となっ
た「堀田正睦」が執り行ったそうで、
「1854年」には、「日米和親条約」が
結ばれ、「1858年」には、「堀田正睦」
を罷免し、「大老」となった「井伊直
弼」が朝廷の勅許が無いまま「日米修好
通商条約」に調印すると言う経緯となっ
た訳なのであり、日本社会は、海外から
の脅威に対する「江戸幕府」の混乱と弱
体化とを感じ、「尊王」と「攘夷」と重
要視する思想で溢れる時代へと変換して
いく経緯となった訳なのです。
ちなみに「13代将軍、家定」の御台所
となった「篤姫」の養父であった「薩摩
藩主、島津斉彬」は、「老中首座、阿部
正弘」に近い事もあって、ペリーが日本
にもたらした国難に対しても、積極的に
口を挟む存在となった事で知られてい
て、「朝廷」と「幕府」との関係をより
一体化させる、いわゆる「公武合体」の
方向に進ませる事を始め、「殖産興業」
を強化する事によって、諸外国からの侵
略の脅威に備える「武備」を充実させた
上で、より有利なタイミングで「開国」
に踏み切り、鎖国に固執せずに、海外の
発達した技術や文化を、日本に有利にな
るような交易を推進して取り入れ、より
「富国」になるように期すると言ったよ
うな内容の、「幕政改革」に取り組んだ
訳なのです。
更に「斉彬」は、幕府との関係を強化す
る為に、「1858年」に、養女である娘
の「篤姫」を「家定」の「御台所」にさ
せるに至った訳なのですが、あいにくと
「世継ぎ」が生まれる前に、「家定」が
病死してしまい、新たに道半ばの幕政改
革を推進する為に、「家定」の後継者問
題で、「一橋家」の「徳川慶喜」を推挙
するに至った訳なのです。
ところが、「大老」となったばかり「井
伊直弼」が、「徳川」の血筋を重んじる
と言う「しきたり」を重視して、「家
定」の「従兄弟」にあたる「家茂」を推
して、強引に反対派を弾圧すると言う、
いわゆる「安政の大獄」を決行して、無
理矢理に「第14代将軍、家茂」とした
事から、「斉彬」は、「将軍職」の「勅
許」を出した「朝廷」に抗議する為に、
5000の兵を引きいて「上洛」しようと
したのですが、その途中で、コレラにか
かり、急逝してしまうと言う経緯となっ
た訳なのだそうです。
こうして「公武」を「合体」させて一枚
岩となり、「幕政」を安定させて、海外
からの脅威に備えると言う政策は、道半
ばで中断してしまった訳なのですが、
「斉彬」に続いて「薩摩藩主」となっ
た、「弟」の「島津久光」が、「兄」の意
志を継いで、「公武合体運動」を進める
に至った訳なのです。
こうして「久光」は、「1862年」に、
「京都」に参集していた、ただひたすら
に「尊王」のみを重視し、「公武合体」
の考え方を否定し、「倒幕」する事を前
提とした、「尊王攘夷派」の「過激分
子」を粛清すべく、兵を率いて「上洛」
するに至った訳なのだそうです。
「上洛」した「久光」は、早速「孝明天
皇」から、「京都の地」で「倒幕」と称
して、「放火」や「挙兵」を促すよう
な、過激で不穏な行動をしている「暴
徒」達を取り締まると言う内容の「宣
下」を賜り、まずは我が身を正すと言う
名目で、「有馬新七」等を中心とする
「薩摩藩士」の中にいる「過激派分子」
達を鎮める事から始めた訳なのだそう
で、彼らが集結していた「池田屋」に、
「兵士」を差し向かわせ、「説得に応じ
なければ上意討ちもやむなし」と言う内
容の「君命」を示した訳なのです。
ところが、それでも「藩主」の「君命」
よりも「天皇」の命のほうが上であると
して、「鎮撫(ちんぶ:しずめなだめる
事)」出来なかった事から、「薩摩藩同
士」での切り合いとなってしまい、「9
名の藩士」が殉職するに至ってしまうと
言う結末になってしまった訳なのだそう
です。
こうして「久光」が示した行動によっ
て、「公武合体運動」推進の「志し」が
非常に高い事が、「朝廷」に大きく伝わ
るに至った訳であり、「久光」に対する
「信望」が大いに高まった事で、その後
の「公武合体政策」が進むに至った訳な
のだそうで、「皇女和宮」の「降嫁」に
も繋がった訳なのです。
その一方で「1860年」に、「桜田門外
の変」が勃発し、「大老、井伊直弼」が
暗殺されて以来、「江戸幕府」の権威は
急速に失墜してしまった訳なのだそう
で、「幕政」に成り代わると言うかたち
で、「朝廷」と「薩摩藩」とが直接的
に「国政の舵取り」をして「国難」に備
えると言う「統治体制」の変容を、「徳
川幕府」は受け入れざるを得ない状況と
なった事により、やがて「倒幕」と「明
治維新」へと続く、日本の歴史の大変容
に至っていくと言う経緯となった訳なの
です。
さて、本日は、「上洛」して「孝明天
皇」から直接「宣下」を受け、「池田屋
事件」を経て、「京都」の「過激派分
子」を沈静化させた事で知られる「薩摩
藩主、島津久光」が、「1862年」に、
「江戸城」を訪れて「幕政」に介入する
ようになった訳なのですが、その時に取
り決められた、いわゆる「文久の改革」
の中で、著しく治安が悪くなってしまっ
た「京都」に新しく設置する事になった
「京都守護職」について、おさらいクイ
ズにチャレンジ致しましょう!
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「1862年」に、「島津久光」が「孝明
天皇」からの「勅書」を持って「江戸」
へ向かい、「江戸城」で取り決められた
「文久の改革」では、「人事改革」の一
貫として、「徳川慶喜」を「第14代将
軍、徳川家茂」の「将軍後見職」に任命
する事を始め、「尊王攘夷過激派」の激
増によって、治安が著しく悪化してしま
った「京都」の治安改善と、「御所」の
保護の為に、「京都守護職」を新設し、
その役職に「会津藩主」が就く事とする
と言う内容の「人事案」が取り決められ
た事で知られています。
問題:「幕末」の「1862年」に、「尊王
攘夷過激派」が激増した事から、「京
都」の「治安維持」を強化する為に、
「京都守護職」が新設され、「会津藩
主、松平容保」が着任した事で知られて
います。
さて、それでは、戦力の足らざるところ
に対応する為、「新選組」もその指揮下
に置かれた事で知られる「京都守護職」
ですが、下記に挙げた4つの「寺院」の
中で、その「本陣」となったのは、どこ
でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.壬生寺
2.西本願寺
3.金戒光明寺
4.天龍寺
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「京都、黒谷」にある「金戒光明寺」
は、「鎌倉時代」に「浄土宗、開宗」を
決意して「比叡山」の黒谷を下山した
「法然上人」が、その途中で見た「神
賜」によって、結んだ「草庵」が、その
始まりだったと言う縁起がある事で知ら
れています。
こうして「金戒光明寺」は、「知恩院」
と双璧の「高い格式」を誇る、「浄土
宗」の「大本山」となった「寺院」とし
て知られている訳なのですが、その後
「時代」が進み、「江戸時代」になる
と、「江戸幕府」は、「京都」に「徳川
家」の居城として「二条城」を建立する
と共に、「浄土宗」の「知恩院」と「金
戒光明寺」とを、「治安維持」の為、「城
郭構造」に改造するに至った訳なのだそ
うです。
こうして「幕末期」に、「尊王攘夷過激
派」の不穏な行動で、荒れに荒れた「京
都」の治安維持に為に新設された「京都
守護職」は、「城郭構造」のある「金戒
光明寺」に設置されるに至ったと言う経
緯となった訳なのだそうで、「会津藩
主」の「松平容保」が、その任に就任す
るに至った訳なのです。
ちなみに、それから6年後の「1868
年」の12月には、「第15代将軍、徳
川慶喜」が「大政奉還」を決断した事を
きっかけとして、「王政復古の大号令」
が発令されるに至ったと言う経緯とな
り、それに伴って「新生、明治政府」が
誕生した事によって、「摂関」を始め、
「江戸幕府」や、「京都守護職」、「京都
所司代」等と言った「旧幕藩体制」の
「統治機能」の全てが廃止されるに至っ
たと言う経緯となった訳なのです。
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
3.金戒光明寺
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大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有する
事を明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
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★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
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ミートをはじめ、食に関するいろいろ
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かったら一度遊びにきてくださると嬉
しいです。「いいね」もしてくださる
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