【食育クイズ:Vol.1109】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都府」の「嵯峨上
皇」にまつわる「離宮・嵯峨院」の
「遺構」について、おさらいクイズ
(Vol.313)にチャレンジ致しまし
ょう!
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794年、「平安京遷都」を実行した、
「第50代、桓武天皇」の実子で次の
天皇になったのは、長男の「第51代、
平城(へいぜい)天皇」と、次男の
「第52代、嵯峨天皇」、七男の「第
53代、淳和(じゅんな)天皇」の3
名だそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-桓武天皇1-1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-平城天皇11.jpg)
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![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200淳和天皇1-1.jpg)
「第51代、平城天皇」は、病気に冒
されてしまった為、在位僅か3年で、
弟の「第52代、嵯峨天皇」に譲位し、
「上皇」となり、旧都である「奈良、
平城京」に移り住んだそうです。
しかしながら、その後病気も回復し、
寵愛する「藤原薬子」と、その兄であ
る「藤原仲成」の、当時宮廷で台頭し
ていたと言われている「兄弟」からの
「天皇復権」させようとする強い要望
を容れ、「平安京」にいる「貴族」達
を「平城京」に移そうとして、父親で
ある「第50代、桓武天皇」が定めた
「掟」であった「平安京より遷都すべ
からず」との「勅(みことのり)」を
破って、「平安京」にいる貴族たちに
対して、「平城京、遷都の詔」を出し、
「藤原薬子、仲成」兄弟と共に、「政
権復帰」を図ろうとする事態になって
しまったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200藤原薬子1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200藤原仲成22-287x300.jpg)
その緊急事態を知った「平城上皇」の
弟でもあった「第52代、嵯峨天皇」
は、早速「藤原薬子」の官位を剥奪し、
父親である「桓武天皇」の定めた「掟」
を守ろうとしましたが、「平城上皇」
側は挙兵までして対抗し、「薬子」と
共に「東国(あづまのくに:京都から
見て東側にある地域で越後国、信濃国、
三河国以東の地域の事)」に入ろうと
したため、「嵯峨天皇」は、「坂上田村
麻呂」を派遣して防いだと言う経緯と
なったそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-180坂の上の田村麻呂11.jpg)
「東国」への逃避が叶わなかった「平
城上皇」は、「平城京」に戻された
後、直ちに剃髮して仏門に入り、「薬
子」は服毒自殺し、兄の「仲成」は射
殺されてしまったと言う経緯があり、
その為、「嵯峨天皇」は、再び「平城
天皇」系から政変を避けるため、「平
城上皇」の実子である「高岳親王」を、
「皇太子」から廃し、緊急的に「桓武
天皇」の七男であり、「嵯峨天皇」か
ら見れば異母弟であった「大伴親王」
を「皇太子」として立て、この政変の
直後に「第53代、淳和天皇」として
「即位」させ、自らは「上皇」となる
と言う経緯に至ったそうで、これらの
事件の事を「藤原薬子の変」と言うそ
うです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-淳和天皇11-240x300.jpg)
こうした政争があった事により、「嵯
峨天皇」は、これからの「天皇」は、
自らの譜系によって継承されていく事
を期すようになった訳であり、そこで、
「薬子の変」により緊急的に「皇太子」
とした「異母弟」の「大伴親王」を、
823年、「第53代、淳和(じゅんな)
天皇」として譲位し、自らは「太上天
皇(上皇)」となり、それと同時に、
実子である「正良親王(後の第54代、
仁明(にんみょう)天皇)」を「皇太
子」として、次代の「天皇」とするた
めの布石とした訳であり、実際に10
年後の833年には、「淳和天皇」の
譲位が実施され、「嵯峨天皇」の実子
が「第54代、仁明(にんみょう)天
皇」が即位すると言う経緯になった訳
なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-仁明天皇11-284x300.jpg)
この「第54代、仁明天皇」の即位に
伴い、「嵯峨上皇」は、「洛外」に「嵯
峨院(後の大覚寺)」と呼ばれる「離
宮(御所)」を新造し、「嘉智子、太皇
太后」と共に移り住んだそうで、その
庭園には、「中国、唐」の「洞庭湖
(どうていこ)」を模した造られた、
日本最古の「人工池」と言われている
「大沢池」が造営され、現在でも「大
覚寺」の管理下に置かれ、国定文化財
として、その名を馳せているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-中国洞庭湖11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺大池庭園.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺大沢池.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺マップ.jpg)
さて、本日は、この、かつて「嵯峨上
皇」の「御所」となった「離宮・嵯峨
院」について、おさらいクイズにチャ
レンジ致しましょう!
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200離宮嵯峨院11.jpg)
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問題:「平安時代初期」の頃、「第52
代、嵯峨天皇」は、「第53代、淳和
天皇」の譲位によって、実子の「第
54代、仁明(にんみょう)天皇」が
即位すると、「嵯峨上皇」となり、洛
外の「京都、嵯峨野」の地に、「離
宮・嵯峨院」を新造して、「上皇后」
と共に移り住んだそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-嵯峨天皇11.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200淳和天皇1-1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-仁明天皇11-284x300.jpg)
さて、それでは、この「嵯峨上皇」が
移り住んだ当時に造営されたと言われ
ていて、現在では「大覚寺、大沢池」
の「畔」、北側約100mのところに
新造され、現在は「嵯峨院、跡地」と
共に、「大覚寺」の管理によって保存
されている、「嵯峨上皇」の「遺構」
とは何でしょうか?
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺大池庭園.jpg)
次のうちから選んで下さい。
1.棲霞観(せいかかん)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200清凉寺 棲露観.jpg)
2.慈眼堂(じげんどう)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200慈眼堂.jpg)
3.名古曽滝(なこそのたき)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200なこそのたき 11.jpg)
4.厭離庵(えんりあん)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200厭離庵.jpg)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「名古曽(なこそ)の滝(跡)」は、
「嵯峨上皇」の御所であった「離宮・
嵯峨院」内に造られた「滝殿庭園」に
設けられたもので、「今昔物語」によ
ると、「平安時代初期」の貴族であり、
優れた「画家」でもあった「百済河成
(くだらのかわなり)」の手によって、
御堂の壁の絵が描かれた時に、「名古
曽の滝」の「滝殿の石組み」も、「河
成」の手によって成されたと言われて
いるそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-百済河成1-281x300.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/350-名古曽の滝後22-300x225.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200名古曽滝.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-225名古曽の滝11.jpg)
しかしながら、あいにくと「名古曽の
滝」の水は、「平安時代中期」頃には
枯れてしまったそうで、それ以降は
「石組み」だけが残され、現在でも
「名古曽の滝、跡地」として、保存さ
れ続けているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200なこそのたき 11.jpg)
この「遺構」は、「大沢池」の北方約
100mのところにあり、「嵯峨上皇」
が造営した当時の「中国・唐風文化」
の面影を現在でも残している「園地」
と共に、「1923年(大正12年)」、
「国の文化財」として、「国の名勝」
に指定されたそうで、現在でも毎年、
「中秋の名月」の頃になると、「大沢
池」に舟を浮かべて月を鑑賞する「観
月の夕べ」が催されているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺大沢池.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺大沢池11.jpg)
ちなみに、「嵯峨上皇」は、実子の
「仁明天皇」の「国政」にも、頻繁に
関与したと言われていて、「上皇」自
らが「叙位」を執り行ったり、「冥土
通い」で有名な、「小野篁(おののた
かむら)」の流罪にも関わったと言わ
れているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-小野篁2-1.jpg)
更に、「嵯峨上皇」は、「平安時代」に
なると、「奈良時代」に全盛だった
「律令政治」の「公地公民制度」が事
実上「荘園制」に以降する時代となり、
「公地公民制度」が崩壊しつつあった
現実と、その一方で「律令制度」のル
ールによって、「天皇や皇族」が「荘
園」を持てなかった事から、「朝廷」
の「財政的な圧迫」が深刻化しつつあ
ったと言う現実から、「皇子・皇女」
が多数存在し、その生活費が財政圧迫
の原因であった事もあり、それを是正
するため、「皇族」の整理を断行した
人物としても知られています。
こうして、「嵯峨上皇」は、整理した
「皇族」に対して「姓」を授け、「臣
籍降下」させた事によって、いわゆる
この時から、「源氏」が誕生すると言
う経緯になった訳なのであり、こうし
て「嵯峨上皇」によって「源姓」を賜
ったものを始め、その子孫の事を、
「嵯峨源氏」と言うようになったと言
う訳なのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/420-源氏平氏の起こり11.jpg)
また、「嵯峨上皇」は、「文化人」とし
てもその名を馳せた人物であり、「漢
詩・書」をよくし、「空海」、「橘逸勢」
と共に「三筆」の一人に数えられてい
て、「延暦寺蔵」の「光定戒牒(こう
じょうかいちょう:国宝)」が、その
著書として有名です。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/400-嵯峨天皇 こうじょうかいちょう.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-最澄国宝.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/400-橘はやなり.jpg)
更に、「嵯峨上皇」は、「大沢池」にあ
った「菊ガ島」に自生していた「(嵯
峨)菊」を手折り、「嵯峨院」の「殿
上の花瓶」に挿されたと言う「逸話」
がある事から、「発祥の地」となった
と言われている、「華道、嵯峨御流
(さがごりゅう)」の開祖としてもそ
の名を馳せているそうです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-大覚寺嵯峨御流活花1.jpg)
こうして、「嵯峨院」は、「嵯峨上皇」
の後の時代においても、「亀山上皇」
や「後宇多上皇」による「院政」の舞
台にもなったと言い経緯があり、「嵯
峨御所」とも呼ばれるようになった
「所以」ともなっているそうです。
こうして、現在でも、「皇室」ゆかり
の寺院「大覚寺」内にある「名古曽の
滝、跡地」、「嵯峨院、跡地」として、
その管理下に置かれ、継承され続けて
いると言う訳になるのです。
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200大覚寺1.jpg)
![](http://syokuiku6jika.jp/wp-content/uploads/2022/11/300-200大覚寺222.jpg)
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
3.名古曽の滝(なこそのたき)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有するこ
とを明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
★高食物繊維(20g、腸内発酵を促進
し、腸内健康の源となります。)
これを毎日食すると腸内発酵が促進さ
れ、お通じが良くなり、腐敗から発酵
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ミートをはじめ、食に関するいろいろ
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かったら一度遊びにきてくださると嬉
しいです。「いいね」もしてくださる
と、情報更新のお知らせが届くように
なりますのでなお嬉しいです。
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