【食育クイズ:Vol.1109】「京都府」の「嵯峨天皇と離宮」おさらいクイズ! 「嵯峨上皇」の「離宮、嵯峨院」跡地にある「遺構」名とは?

 

【食育クイズ:Vol.1109】

 

本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、

 

和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、

 

大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」

 

をテーマとした地域社会の在り方や、

 

昔から先人たちが培ってきた、「文化」、

 

「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、

 

クイズを楽しみながら知見を高め、あ

 

らためて「日本」や「日本人」が培っ

 

てきた「良きところ」を共有化し、次

 

代に継承して参りましょう!

 

さて、本日は、「京都府」の「嵯峨上

 

皇」にまつわる「離宮・嵯峨院」の

 

「遺構」について、おさらいクイズ

 

(Vol.313)にチャレンジ致しまし

 

ょう!

 

 

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794年、「平安京遷都」を実行した、

 

「第50代、桓武天皇」の実子で次の

 

天皇になったのは、長男の「第51代、

 

平城(へいぜい)天皇」と、次男の

 

「第52代、嵯峨天皇」、七男の「第

 

53代、淳和(じゅんな)天皇」の3

 

名だそうです。

 

 

 

 

 

「第51代、平城天皇」は、病気に冒

 

されてしまった為、在位僅か3年で、

 

弟の「第52代、嵯峨天皇」に譲位し、

 

「上皇」となり、旧都である「奈良、

 

平城京」に移り住んだそうです。

 

しかしながら、その後病気も回復し、

 

寵愛する「藤原薬子」と、その兄であ

 

る「藤原仲成」の、当時宮廷で台頭し

 

ていたと言われている「兄弟」からの

 

「天皇復権」させようとする強い要望

 

を容れ、「平安京」にいる「貴族」達

 

を「平城京」に移そうとして、父親で

 

ある「第50代、桓武天皇」が定めた

 

「掟」であった「平安京より遷都すべ

 

からず」との「勅(みことのり)」を

 

破って、「平安京」にいる貴族たちに

 

対して、「平城京、遷都の詔」を出し、

 

「藤原薬子、仲成」兄弟と共に、「政

 

権復帰」を図ろうとする事態になって

 

しまったそうです。

 

 

 

その緊急事態を知った「平城上皇」の

 

弟でもあった「第52代、嵯峨天皇」

 

は、早速「藤原薬子」の官位を剥奪し、

 

父親である「桓武天皇」の定めた「掟」

 

を守ろうとしましたが、「平城上皇」

 

側は挙兵までして対抗し、「薬子」と

 

共に「東国(あづまのくに:京都から

 

見て東側にある地域で越後国、信濃国、

 

三河国以東の地域の事)」に入ろうと

 

したため、「嵯峨天皇」は、「坂上田村

 

麻呂」を派遣して防いだと言う経緯と

 

なったそうです。

 

 

「東国」への逃避が叶わなかった「平

 

城上皇」は、「平城京」に戻された

 

後、直ちに剃髮して仏門に入り、「薬

 

子」は服毒自殺し、兄の「仲成」は射

 

殺されてしまったと言う経緯があり、

 

その為、「嵯峨天皇」は、再び「平城

 

天皇」系から政変を避けるため、「平

 

城上皇」の実子である「高岳親王」を、

 

「皇太子」から廃し、緊急的に「桓武

 

天皇」の七男であり、「嵯峨天皇」か

 

ら見れば異母弟であった「大伴親王」

 

を「皇太子」として立て、この政変の

 

直後に「第53代、淳和天皇」として

 

「即位」させ、自らは「上皇」となる

 

と言う経緯に至ったそうで、これらの

 

事件の事を「藤原薬子の変」と言うそ

 

うです。

 

 

こうした政争があった事により、「嵯

 

峨天皇」は、これからの「天皇」は、

 

自らの譜系によって継承されていく事

 

を期すようになった訳であり、そこで、

 

「薬子の変」により緊急的に「皇太子」

 

とした「異母弟」の「大伴親王」を、

 

823年、「第53代、淳和(じゅんな)

 

天皇」として譲位し、自らは「太上天

 

皇(上皇)」となり、それと同時に、

 

実子である「正良親王(後の第54代、

 

仁明(にんみょう)天皇)」を「皇太

 

子」として、次代の「天皇」とするた

 

めの布石とした訳であり、実際に10

 

年後の833年には、「淳和天皇」の

 

譲位が実施され、「嵯峨天皇」の実子

 

が「第54代、仁明(にんみょう)天

 

皇」が即位すると言う経緯になった訳

 

なのです。

 

 

この「第54代、仁明天皇」の即位に

 

伴い、「嵯峨上皇」は、「洛外」に「嵯

 

峨院(後の大覚寺)」と呼ばれる「離

 

宮(御所)」を新造し、「嘉智子、太皇

 

太后」と共に移り住んだそうで、その

 

庭園には、「中国、唐」の「洞庭湖

 

(どうていこ)」を模した造られた、

 

日本最古の「人工池」と言われている

 

「大沢池」が造営され、現在でも「大

 

覚寺」の管理下に置かれ、国定文化財

 

として、その名を馳せているそうです。

 

 

 

 

 

さて、本日は、この、かつて「嵯峨上

 

皇」の「御所」となった「離宮・嵯峨

 

院」について、おさらいクイズにチャ

 

レンジ致しましょう!

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

問題:「平安時代初期」の頃、「第52

 

代、嵯峨天皇」は、「第53代、淳和

 

天皇」の譲位によって、実子の「第

 

54代、仁明(にんみょう)天皇」が

 

即位すると、「嵯峨上皇」となり、洛

 

外の「京都、嵯峨野」の地に、「離

 

宮・嵯峨院」を新造して、「上皇后」

 

と共に移り住んだそうです。

 

 

 

 

さて、それでは、この「嵯峨上皇」が

 

移り住んだ当時に造営されたと言われ

 

ていて、現在では「大覚寺、大沢池」

 

の「畔」、北側約100mのところに

 

新造され、現在は「嵯峨院、跡地」と

 

共に、「大覚寺」の管理によって保存

 

されている、「嵯峨上皇」の「遺構」

 

とは何でしょうか?

 

 

次のうちから選んで下さい。

 

1.棲霞観(せいかかん)

 

 

2.慈眼堂(じげんどう)

 

 

3.名古曽滝(なこそのたき)

 

 

4.厭離庵(えんりあん)

 

 

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓ 

 

【解説】

 

「名古曽(なこそ)の滝(跡)」は、

 

「嵯峨上皇」の御所であった「離宮・

 

嵯峨院」内に造られた「滝殿庭園」に

 

設けられたもので、「今昔物語」によ

 

ると、「平安時代初期」の貴族であり、

 

優れた「画家」でもあった「百済河成

 

(くだらのかわなり)」の手によって、

 

御堂の壁の絵が描かれた時に、「名古

 

曽の滝」の「滝殿の石組み」も、「河

 

成」の手によって成されたと言われて

 

いるそうです。

 

 

 

 

 

しかしながら、あいにくと「名古曽の

 

滝」の水は、「平安時代中期」頃には

 

枯れてしまったそうで、それ以降は

 

「石組み」だけが残され、現在でも

 

「名古曽の滝、跡地」として、保存さ

 

れ続けているそうです。

 

 

この「遺構」は、「大沢池」の北方約

 

100mのところにあり、「嵯峨上皇」

 

が造営した当時の「中国・唐風文化」

 

の面影を現在でも残している「園地」

 

と共に、「1923年(大正12年)」、

 

「国の文化財」として、「国の名勝」

 

に指定されたそうで、現在でも毎年、

 

「中秋の名月」の頃になると、「大沢

 

池」に舟を浮かべて月を鑑賞する「観

 

月の夕べ」が催されているそうです。

 

 

 

ちなみに、「嵯峨上皇」は、実子の

 

「仁明天皇」の「国政」にも、頻繁に

 

関与したと言われていて、「上皇」自

 

らが「叙位」を執り行ったり、「冥土

 

通い」で有名な、「小野篁(おののた

 

かむら)」の流罪にも関わったと言わ

 

れているそうです。

 

 

更に、「嵯峨上皇」は、「平安時代」に

 

なると、「奈良時代」に全盛だった

 

「律令政治」の「公地公民制度」が事

 

実上「荘園制」に以降する時代となり、

 

「公地公民制度」が崩壊しつつあった

 

現実と、その一方で「律令制度」のル

 

ールによって、「天皇や皇族」が「荘

 

園」を持てなかった事から、「朝廷」

 

の「財政的な圧迫」が深刻化しつつあ

 

ったと言う現実から、「皇子・皇女」

 

が多数存在し、その生活費が財政圧迫

 

の原因であった事もあり、それを是正

 

するため、「皇族」の整理を断行した

 

人物としても知られています。

 

こうして、「嵯峨上皇」は、整理した

 

「皇族」に対して「姓」を授け、「臣

 

籍降下」させた事によって、いわゆる

 

この時から、「源氏」が誕生すると言

 

う経緯になった訳なのであり、こうし

 

て「嵯峨上皇」によって「源姓」を賜

 

ったものを始め、その子孫の事を、

 

「嵯峨源氏」と言うようになったと言

 

う訳なのです。

 

 

また、「嵯峨上皇」は、「文化人」とし

 

てもその名を馳せた人物であり、「漢

 

詩・書」をよくし、「空海」、「橘逸勢」

 

と共に「三筆」の一人に数えられてい

 

て、「延暦寺蔵」の「光定戒牒(こう

 

じょうかいちょう:国宝)」が、その

 

著書として有名です。

 

 

 

 

更に、「嵯峨上皇」は、「大沢池」にあ

 

った「菊ガ島」に自生していた「(嵯

 

峨)菊」を手折り、「嵯峨院」の「殿

 

上の花瓶」に挿されたと言う「逸話」

 

がある事から、「発祥の地」となった

 

と言われている、「華道、嵯峨御流

 

(さがごりゅう)」の開祖としてもそ

 

の名を馳せているそうです。

 

 

こうして、「嵯峨院」は、「嵯峨上皇」

 

の後の時代においても、「亀山上皇」

 

や「後宇多上皇」による「院政」の舞

 

台にもなったと言い経緯があり、「嵯

 

峨御所」とも呼ばれるようになった

 

「所以」ともなっているそうです。

 

こうして、現在でも、「皇室」ゆかり

 

の寺院「大覚寺」内にある「名古曽の

 

滝、跡地」、「嵯峨院、跡地」として、

 

その管理下に置かれ、継承され続けて

 

いると言う訳になるのです。

 

 

 

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3.名古曽の滝(なこそのたき)

 

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大阪市立大学の研究グループが、大豆

 

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