【食育クイズ:Vol.1120】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都、長州藩邸跡地」
にある「長州藩士」の銅像について、
おさらいクイズ(Vol.324)にチャ
レンジ致しましょう!
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「黒船来航」によって「開国」をした
「大老、井伊直弼」が、1860年に
「桜田門外の変」で暗殺され、また、
1862年に「老中、安藤信正」が「坂
下門外の変」で襲撃され負傷し、その
後失脚する等…、「文久年間」に入っ
てから相次いで「幕府首脳」が「尊王
攘夷派、浪士」に襲われる事件が起こ
り、「徳川幕府」の権威は失墜してい
ったと言う経緯があります。
こうした流れによって、「尊王攘夷派」
の意気は益々上がり、「京都」では、
「天誅」と称する「尊王攘夷派志士」
による「暗殺」が日常化し、「土佐勤
王党、岡田以蔵」や、「薩摩藩、田中
新兵衛」の志士等が、「尊王攘夷にあ
らずんば人にあらず」と吹聴した事も
あって、「京都」の街は、「公家、武士、
町人」の区別無く、無差別的な暗殺、
暴行、略奪、恐喝が行われ、「無法地
帯」となってしまったそうです。
更に「尊王攘夷」の流れは益々冗長し、
「文久3年(1863年)、4月」から、
「同年9月」に「八月十八日の政変」
が勃発するまでの6ヶ月間で、極端な
外国嫌いとして知られる「第121代、
孝明天皇」が御所におわす事に乗じる
かたちで、「尊王攘夷一色」に染まっ
た「京都」において、まるで「天と地」
がひっくり返るような「大事件」が続
発する事態になったと言う経緯があり
ます。
まず最初に起こった事件とは、「徳川
幕府」を「室町幕府」になぞらえて、
これを最大限に侮蔑する為に、「足利
尊氏、義詮、義満」の木像の「首と位
牌」が、「鴨川の河原」に晒されると
言う、「足利三代木像梟首事件(あし
かがさんだいもくぞうきょうしゅじけ
ん)」が起こったそうです。
そこで、事態を重く見た「第14代将
軍、徳川家茂」は、「徳川将軍」とし
ては229年ぶりに上洛し、「第121
代、孝明天皇」と共に「賀茂神社」を
参拝すると共に、極端な外国嫌いであ
った「孝明天皇」から、「和宮、降嫁」
の条件である「攘夷」の実行を迫られ
た事から、「5月10日」をもって決行
すると約束すると言う経緯となったと
言われています。
そして「5月10日」になると、「攘
夷」の急先鋒的立ち位置であった「長
州藩」は、「下関海峡」にいた「アメ
リカ商船」を砲撃し、約束通り「攘夷」
を決行しますが、「他藩」は全く動く
気配を見せなかったと言う経緯になっ
たそうです。
「攘夷」の報復として、「長州藩」は、
「四国(米、英、仏、蘭)連合艦隊」
から攻撃を受ける事になってしまいま
したが、近隣の「諸藩」は傍観するの
みで、「長州藩」を助ける動きは全く
無かったそうです。
しかも、「孝明天皇」に「攘夷決行」
を約束した「将軍、家茂」も、6月に
なると逃げるように「江戸」に戻って
しまったと言う経緯があり、こうして
「孤立状態」に陥ってしまった「長州
藩」は、その状況を打開し、「皇女和
宮の降嫁」と言う、穏健な「公武合体
策」になりつつあった「国論」を再び
「攘夷」の方向に向かわせるために、
外国嫌いの「孝明天皇」の「大和行幸」
を企て、「伊勢神宮」に「攘夷を奉納
する」と言う計画を立てたそうです。
ところが、7月になると、急進的な
「尊王攘夷派」の「公家」であった
「姉小路公知(あねがこうじきんと
も)」が「京都御所」外郭にある「朔
平門(さくへいもん)」で襲撃され、
翌日に死去すると言う事件が勃発し、
「孝明天皇」の「大和行幸」に合わせ
て、「天皇」の「伊勢神宮参拝」の後
に、「武力討幕」の挙兵を行うと言う
計画を画策していた、「長州藩士、久
坂玄瑞(くさかげんずい)」等を始め
とする、「京都」の「尊王攘夷派」の
勢いが削がれてしまうと言う事態とな
り、それに呼応して熱心な「攘夷主義
者」であった「孝明天皇」自身も、急
進派の横暴的行為を嫌うようになって
しまったと言う経緯となったそうです。
更にその事件を受けて、8月になると、
「薩摩藩」や「会津藩」を中心とした
「第14代、家持」公と「皇女和宮」
との婚姻を進めると言う「公武合体派」
の勢力が勢い付き、「尊王攘夷派」を
一掃しようとする動きが活発化し、
15日になると、「薩摩藩士、高崎正風
(たかさきまさかぜ)」と、「会津藩士、
秋月悌次郎(あきづきていじろう)」
が、「中川宮朝彦親王(なかがわのみ
やあさひこしんのう)」を擁し、「公武
合体派」による「クーデター(政変)」
に着手し、「中川宮」は16日に参内
し、「孝明天皇」を説得し、翌17日
には、「攘夷派一掃」の勅命が下った
と言う経緯となったそうです。
そして翌18日に、いわゆる「8月
18日の政変」が決行されると言う経
緯となり、「会津、薩摩、淀、阿波、
備前、因州、徳島、鳥取、米沢」等々
…の「諸藩」が繰り出した「藩兵」
2000名以上が「禁裏(京都御所)」
の九つの門を封鎖、警備に付いたそう
で、御所内では「孝明天皇」の「大和
行幸」の延期を始め、「三条実美」等
ら「急進攘夷派」の公家15人の「禁
足(御所への出入り禁止)」と、「人と
の面会禁止」、「国事参政、国事寄人の
廃止」が決議されたと言う経緯となっ
たそうです。
この「政変」によって、「長州勢」は
失脚した公家のうち「三条実美、三条
西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生
基修、錦小路頼徳、澤宣嘉」の7人と
共に、「禁足」を破らせ、長州へと
「下野する(七卿落ち)」と言う事態
となったそうです。
こうして、「京都」から追放された
「長州藩」でしたが、その後も「攘夷
復活」への熱い思いは断ち切れる事が
無く、再び「京都」にゲリラ的に潜伏
するようになり、巻き返しを狙う勢力
となっていったそうで、その動きに対
応する形で、「京都守護職」は、「新選
組」を採用して、「攘夷派」に対する
「警備や捜索」を行わせるようになっ
ていったと言う経緯になるそうです、
そして、その「新選組」によって、翌
年の6月に勃発したのが「京都、池田
屋」に潜伏していた「長州藩」や「土
佐藩」の「攘夷派勢力」を、「新選組」
が襲撃し、数多くの志士が殺されると
言う「池田屋事件」であり、この事件
をきっかけとして、激昂した「長州藩」
の「強硬派」が「挙兵、上洛」し、翌
月に「禁門の変」を引き起こすと言う
経緯になった訳なのです。
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こうして、「長州藩」の強硬派は、「池
田屋事件」を引き起こした「新選組」
を採用していた「京都守護職」である
「会津藩主、松平容保」等の排除を目
指して挙兵するに至った訳であり、
「京都」を包囲し、「薩摩藩」や「会
津藩」と戦火を交えると言う、いわゆ
る「禁門の変(蛤御門の変)」を引き
起こしました訳なのですが、「洛中」
における「大名」勢力同士の交戦は、
実に「大坂夏の陣(1615年)」以来
の事であったそうで、これによって
「洛中」は、約3万戸が焼失するなど、
太平の世を揺るがす程の「大事件」と
なったと言う経緯がある訳なのです。
こうして「大砲」も投入された激しい
戦闘の結果、「長州藩」勢力は敗北し、
「真木保臣」等、「尊王攘夷」を牽引
してきた「急進的指導者」の大半が戦
士し、「長州藩」はその勢力を大きく
削がれると言う結果になったそうで、
更に「長州藩」は、この戦乱で「御所」
に向けて発泡したと言う罪により、
「朝敵」とされてしまい、その後の
「第一次長州征討」までもが実行され
ると言う最悪の事態にまで陥ってしま
った訳なのですが、諸外国からの驚異
に備えなければならないと言う緊急事
態の状況である日本国が、無意味な内
乱ばかりしていてはならないと思う、
「坂本龍馬」等の活躍もあって、「攘
夷派、長州藩」と相反する「公武合体
派、薩摩藩」とが、1866年、「同盟」
を結び、更に、「大政奉還」が成され
ると言う奇跡的な事が起こり、こうし
て日本国は、幕末の政争から日本統一
へシフトする方向となり、「明治維新」
へと向かっていったと言う経緯がある
訳なのです。
こうして「歴史的結果論」から言えば、
「長州藩」も「薩摩藩」も、「欧米列
強」との戦闘を経験し、それらの列強
に対して真っ向から立ち向かうと言う
「攘夷思想」を持つ事が、その当時の
日本の「軍事的規模」からして「不可
能」であると言う事を悟った訳であり、
その結果として「同盟」を結んだ「2
強」を中心とした勢力が「倒幕」を実
現し、全く新しい政治体制である「明
治政権」を立ち上げ、その根幹に「富
国強兵、殖産興業」政策を置き、諸外
国からの驚異に備える事を実現出来た
と言う経緯になる訳なのです。
こうして「幕末の内乱」において、
「八月十八日の政変」で、「長州藩」
を蹴落としたのは「薩摩藩」であり、
また、その一方で、その後「苦境」に
陥ってしまった「長州藩」に対して、
無意味な内乱を止めて、数多くの人材
を抱えている「長州藩」と「連合」し
て、「外敵からの驚異」から「日本」
を護るために、救ったのも「薩摩藩」
であり、「坂本龍馬」であったと言う
事が、「尊王攘夷」と言う「実行不可
能な思想」から日本が決別できた、日
本の歴史上の奇跡としか言いようが無
い時代だった訳なのです。
こうしてかつては「下関海峡」を通過
していただけの外国商船へ向けて砲撃
してしまうほどに過激だった「長州藩」
の「尊皇攘夷思想」は、劇的に変容し、
「富国強兵、殖産興業」思想へと移り
変わって行き、その結果「明治時代末
期」には、当時「世界最強レベル」と
言われていた「ロシア」と真っ向から
戦える国力を持つ国へと成長したと言
う経緯がある訳なのであり、「幕末」
の「開国」時に、「大老、井伊直弼」
が締結した「不平等条約」も、力を付
けた事によって、解消出来た訳なので
す。
現在の日本も、もうこれ以上、「富国
強兵、殖産興業」をしない、考えない
状態を止めない限り、「中国」を始め
とする「軍事力」で圧力をかけてくる
海外からの勢力に屈するばかりとなり
続けている事になってしまう訳なのだ
と言う事を、「幕末の先人達」に学ん
で欲しいものだと思われる訳なのです。
さて、本日は、以上のような「幕末」
の様々な混乱、内乱を乗り切って「生
き抜き」、「明治時代」になってからは、
「明治政府」の重鎮として、獅子奮迅
の働きをした「長州藩」の偉人につい
て、おさらいクイズにチャレンジ致し
ましょう!
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問題:「江戸時代」、「京都、河原町、
御池東北角」にあった「長州藩邸」は、
「幕末期(1864年)」に勃発した
「禁門の変(蛤御門の変)」で焼失し
てしまったそうで、現在、この跡地は
「京都ホテルオークラ」の敷地となっ
ているそうです。
さて、それでは、現在この場所に「河
原町通」に面して立っている、「幕末
から明治時代」にかけて活躍した「長
州藩士」の銅像がありますが、この人
物とは一体誰でしょうか?
次のうちから選んで下さい。
1.井上馨
2.山縣有朋
3.伊藤博文
4.木戸孝允(桂小五郎)
↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
現在、「京都ホテルオークラ」の敷地
に立っているのは、「桂小五郎(木戸
孝允)」の「石碑と銅像」です。
「桂小五郎(木戸孝允)」は、「幕末期」
に「長州藩の代表」として「薩摩藩」
の「西郷隆盛」や、「大久保利通」と
「薩長同盟」を結び、「倒幕」を成功
させ、「明治維新」を成し遂げた人物
の一人として知られている人物です。
「倒幕」を果たし「徳川政治」を排除
した「明治維新」後になると、「木戸
孝允」は、「新政府」の中心的役割を
果たし、「五箇条の御誓文」の起草や、
「版籍奉還」、「廃藩置県」等に取り組
み、「海外列強」からの驚異に瀕して
いた当時の日本を、「軍事面」で追い
つくため、「富国強兵」、「殖産興業」
政策を掲げ、「近代国家」としての礎
を構築すべく、様々な政策を執り行っ
た人物として知られています。
幕末に「長州藩」絡みで立て続けに勃
発した「八月十八日の政変」、「池田屋
事件」、「禁門の変」の事件によって、
「長州藩」は、「朝敵」と見做される
ようになってしまったと言う経緯があ
りますが、それを乗り切り、「池田屋
事件」でも生き抜き、その後の日本の
発展に貢献した人物だったと言う訳な
のです。
↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
4.木戸孝允(桂小五郎)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有するこ
とを明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
★高食物繊維(20g、腸内発酵を促進
し、腸内健康の源となります。)
これを毎日食すると腸内発酵が促進さ
れ、お通じが良くなり、腐敗から発酵
にチェンジするので、おならが臭くな
くなります。
デドックス効果で身体もスッキリ!!
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なりますのでなお嬉しいです。
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