【食育クイズ:Vol.1860】
本日も、「関西地方(三重県、滋賀県、
和歌山県、奈良県、兵庫県、京都府、
大阪府)」の「食文化」や「郷土文化」
をテーマとした地域社会の在り方や、
昔から先人たちが培ってきた、「文化」、
「伝統」、「歴史」等の素晴らしさを、
クイズを楽しみながら知見を高め、あ
らためて「日本」や「日本人」が培っ
てきた「良きところ」を共有化し、次
代に継承して参りましょう!
さて、本日は、「京都、右京区、嵯峨」
にある「小倉山」の「山麓」にある「寺
院」について、「おさらいクイズ(Vol.
1060)」にチャレンジ致しましょう!

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「平安時代」の「歌人、在原業平」が
「嵐山の鵜飼」の様子を詠んだ「歌」
に、

~『大堰川 浮かべる舟の篝火に 小倉
の山も名のみなりけり』~
【現代語訳】:
~『大堰川に浮かんでいる舟の篝火(か
がりび)の火の粉によって明るく照らさ
れるので、暗い筈の「小倉山(=お暗の
山)」一帯も、明る過ぎて名ばかりにな
っている』~
現在の「小倉山(おぐらやま)」は、「桂
川」の北岸に位置し、「南岸」にある
「嵐山」と相対する「標高296m」の
山での事を言いますが、「平安時代」の
頃には、「嵐山、亀山、愛宕山」にかけ
て一帯の「総称」だったそうです。

このように「小倉山」の「西麓」と「南
麓」には、「大堰川(桂川、保津川)」
が流れ、「東麓」は「嵯峨野の地」があ
り、「北東麓」には「葬送の地」として
知られる「化野(あだしの)」がある事
で知られ、「京都屈指」の「紅葉の地」
であり、「歌枕」としても有名で、「小倉
百人一首」発祥の地でもある事で知られ
ています。
さて、本日は、この「小倉山」の「東
麓」にある「寺院」について、おさらい
クイズにチャレンジ致しましょう!

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「鎌倉時代末期」に、「武家統治」によ
って「支配力」が衰えてしまった、「朝
廷」による「天皇親政」を期した「第
96代、後醍醐天皇」は、「鎌倉幕府打
倒」を掲げ、「皇子」の「尊良親王」や
「護良親王」と共に、戦いを起こした事
で知られています(1331年~1332
年:元弘の変)。



その結果「鎌倉幕府9代執権、北条高
時」率いる「得宗(とくしゅう)軍」に
よって捕縛されてしまい、「後醍醐天
皇」は「隠岐の島」へ「流刑」となり、
「尊良親王」は「土佐国、隠岐の島」に
「流刑」となり、「後醍醐天皇」の「大
覚寺統」と対立する「持明院統」の「光
厳天皇(北朝初代天皇)」が「鎌倉幕
府」によって擁立され、いわゆるその後
「60年」近くも続く「両統迭立」の時
代の始まりとなり、「元弘の変」は一旦
収束するに至りました。

ところがその直後、「第3皇子」の「護
良親王」が、「楠木正成」と共に、「還
俗」してまで「再挙兵」するに至り、
「1333年」に、「後醍醐天皇」や「尊
良親王」が「流刑地」を脱出した事から
反撃が始まり、「足利尊氏」や「新田義
貞」等が「倒幕勢力(官軍)」側につい
た事もあって、「鎌倉幕府」の「北条得
宗家」は、ついに滅亡するに至り、これ
を「元弘の乱」と区別して称されていま
す。


その後直ちに「後醍醐天皇」による「建
武の新政」が執り行なわれるに至った訳
なのですが、今度は「倒幕」に大貢献し
た「足利尊氏」との間で対立が生じてし
まい、「後醍醐天皇」は「新田義貞」を
擁立して「尊氏」の対抗勢力にした事
で、「賊軍」となった「尊氏」率いる
「鎌倉勢力」と、「官軍」の「総大将」
となった「新田義貞」との戦い(建武の
乱)になってしまった訳なのだそうで
す。



こうして、「光厳天皇(北朝)」を奉じる
足利尊氏」が率いる「鎌倉軍」と、「後
醍醐天皇(南朝)」を中心とする「官
軍」との戦いは、「鎌倉」や「京都」を
始め「九州」等と言った日本各地で繰り
返され、「1335年」になると、「湊川
(兵庫県)の戦い」で、「官軍」の「楠
木正成」は戦死、「新田義貞」は「都」
まで押し返されるかたちで敗走となり、
「足利軍」は「上洛」するに至った事
で、「後醍醐天皇」は「比叡山」に逃れ
た後、「和睦」と言うかたちを取らざる
を得ない状況となり、「後醍醐天皇」は
「三種の神器」を「北朝」に受け渡し、
「北朝初代、光厳上皇」の「院政下」
で、新たに「持明院統」から即位した
「光明天皇」が、一時的に正式な「天
皇」となったと言う経緯となり、それに
伴って「足利尊氏」は、「京都」に「足
利幕府」を「開府」し、「建武式目」を
制定して統治を始めるに至った事で知ら
れています。




ところが「後醍醐天皇」は、幽閉されて
いた「花山院」を脱出して、「北朝」側
に渡した「三種の神器」は「偽物」であ
るとして、「吉野(奈良県)」の地に、新
たに「朝廷」を開いた事によって、「京
都朝廷(北朝)」と「吉野朝廷(南朝)」
が「60年」近くも続く、非常に「カオ
ス」な、「南北朝時代」の始まりとなっ
てしまった事で知られています。

その後数多くの戦乱が繰り返され、「南
朝」側の「楠木正成」や「北畠顕家」等
が「戦死」した事で、「最後の砦」とな
った「新田義貞」は、「京都」から敗走
し、「北国」の「越前国(富山県)」に逃
れ、その場所で勢いを盛り返し、やがて
自ら「上洛」して「尊氏」が庇護する
「北朝」勢力から「政権」を取り戻すべ
く、活路を求めていた訳なのですが、
「1338年」になった時に、「福井県」
にある「平泉寺」が、「北朝側に加担し
なければ、藤島七郷を奪う」と言う、
「足利方の脅し」によって突如寝返える
と言う事態となり、「南朝側の兵士」達
と小競り合いとなってしまった事から、
やむなく「義貞」は、少人数で救援に向
かった訳なのですが、その途中で「足利
軍」の「待ち伏せ」に合い、弓矢の集中
砲火を浴びて致命傷を負い、自ら自害し
て果てるに至ってしまった訳なのだそう
です。



こうして「義貞」の首は、「京都」の
「室町幕府」に送られ、
~『(北朝の)朝敵の最たるもの、武家
の仇敵の第一』~
と称され、「都大路」を引き回された
後、「獄門」に掛けられるに至ったと言
う経緯となった訳なのです。
見物人の中には、「義貞」と関係の深い
人々も数多くいて、その死を嘆き悲しむ
姿が、見受けられた訳なのだそうです。
こうして「義貞」の死は、日本中を混乱
に巻き込んだ「武家の棟梁」を巡る一連
の抗争に終止符を打ち、以降の「南北朝
時代」史において、「南朝側」劣勢の方
向へと傾ける要因となったと言われてい
る訳なのです。
ちなみに「新田義貞」の「死後」におけ
る「逸話」も数多くあり、その中で特に
有名なものは下記の通りです。
1️⃣:「南朝の天皇」は、戦死した「義
貞」に対して、「正二位・大納言」の官
位を追贈した。
2️⃣:「江戸時代前期」の「1656年(明
暦2年)」になって、「義貞」が自害し
た「福井県」の「古戦場」から出土した
「兜」が、「義貞」着用のものと判明
し、「越前(福井)藩主、松平光通」に
献上され、以後「松平家」に保管され
た。
またこの時「光通」は、「暦応元年閏七
月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ
「石碑」を建立し、以降この場所は「新
田塚」と呼ばれるようになった。

3️⃣:死後「500年」以上を経過し、「明
治維新」が成し遂げられた時、「義貞」
は、「朝廷」に尽くした「忠臣」・「英
雄」として再評価されるようになった。
4️⃣:「1870年(明治3年)」に、「福井
県知事、松平茂昭」は、「新田塚」に
「祠」を建立した。
その後「1876年(明治6年)」になる
と、「義貞」を「主祭神」とする「藤島
神社」が創建され、それまで「松平家」
において保管されていた「義貞の兜」
が、「神社宝物」として奉納された。

5️⃣:「1882年(明治15年)」に、「義
貞」は、「正一位」を贈位されるに至っ
た。

以上のように「義貞」は、現在では、
「時代の英雄的存在」として、認識され
るようになっている訳なのです。
さて、本日は、この「新田義貞」の「首
塚」がある「京都の寺院」について、お
さらいクイズにチャレンジ致しましょ
う!

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「新田義貞」は「第96代、後醍醐天
皇」の「忠臣」として、「1333年」
に、「鎌倉幕府」を倒した事で知られて
いますが、その後新たな勢力となった
「鎌倉」を中心とする「足利尊氏」と、
「武家の棟梁の座」を巡る抗争となり、
「1338年」に「尊氏勢力」に敗れ、自
害した事で知られています。
問題:「足利尊氏」との抗争に敗れ、「自
害」した「新田義貞」のものと伝わる
「首塚」が「門前」にある事で知られて
いる、「京都、小倉山、山麓」にある
「寺院」とは、どれでしょうか?


次のうちから選んで下さい。
1.滝口寺

2.化野(あだしの)念仏寺

3.天龍寺

4.清凉寺(嵯峨釈迦堂)

↓↓↓↓↓答えはここから↓↓↓↓↓
【解説】
「京都、右京区、嵯峨」の「小倉山、山
麓」に、ひっそりと佇む、「浄土宗」の
「寺院、滝口寺(たきぐちでら)」は、
「鎌倉時代」の創建で、「明治維新」に
よる「廃仏毀釈」により、一時「廃寺」
となってしまったそうですが、「昭和初
期」に再建され、現在に至っているのだ
そうです。

この「滝口寺」の小さな「山門」を潜り
抜けると、すぐ左先に「義貞の首塚」
と、「愛妻」として知られている「勾当
内侍(こうとうのないし)の供養塔」の
「案内板」が立っています。

「新田義貞」は、共に「鎌倉幕府」を滅
ぼしながらも、「運命の悪戯」としか言
いようの無い、「カオス」で「激変の時
代の波」に翻弄された挙げ句、究極のラ
イバル同士となってしまった「足利尊
氏」との抗争に敗れ、最後は「越前国
(福井県)」での「小競り合い的戦(い
くさ)」で、思いがけずに、「弓矢の乱
射」の待ち伏せに合い、「矢」に当たっ
てしまった事が致命傷となり、命を落と
すと言う経緯となってしまいました。
その後「義貞」の「首」は、「京都」で
「晒し首」にされた後、「義貞」と「離
れ離れ(はなればなれ)」となって「京
都」に居た「愛妻」の「勾当内侍(こう
とうのないし)」が、こっそり持ち出
し、この地に葬ったと伝えれている訳な
のだそうです。





「鎌倉幕府」を陥落させ、「上洛」した
「新田義貞」は、その功績により、「第
96代、後醍醐天皇」から「従四位上」
に叙されるに至りましたが、その一方
で、宿命のライバルとなった「足利尊
氏」は、「従三位」に叙され、且つ「鎮
守府将軍」となったと言う経緯があり、
「武士」としての「尊厳」を重視する
「義貞」に比して、「尊氏」は、「政治的
な力量」において勝っていた事が伺い知
れる訳なのだそうです。

こうして、この「武家の棟梁の座」を争
った両者の間では、「鎌倉幕府」を滅亡
させた時点においては、その「地位」や
「恩賞」について、かなりの差がついて
いた訳なのです。
ところがその後「尊氏」が「後醍醐天
皇」に造反するに至った事によって、
「日本の統治機能」は一つにまとまら
ず、益々「カオス」な「両統迭立の時代
(南北朝時代)」に陥ってしまうに至っ
た訳なのであり、「義貞」が戦死するま
での間において、「北朝側」の「尊氏」
と、「南朝側」の「義貞」とは、「武家の
棟梁の座」を巡り、まるで「シーソーゲ
ーム」のような抗争を繰り返すに至った
と言う歴史的経緯となった訳なのです。

↓↓↓↓↓↓↓答え↓↓↓↓↓↓↓
1.滝口寺
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大阪市立大学の研究グループが、大豆
などに含まれるイソフラボンが肺気腫
や慢性気管支炎などの「COPD(慢性
閉塞性肺疾患)」の予防効果を有する
事を明らかにしました。
食Pro.お薦めの「大豆ミート」は、
少量摂取でも人にとって必須な「タン
パク質」「食物繊維」「核酸」などの栄
養素が摂取できるように、大豆の油脂
分を除いてから作っています。
必要な栄養素が原料大豆の約1.2倍
以上となり、濃縮された分だけ、多く
含まれています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
★大豆プロテイン100g中に植物性
たんぱく質が50g!(半分がたんぱ
く質です)
★低脂質(2.7g)です!
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